No.2 厳しい慈悲
七高僧の1人・源信僧都と弟子たちが住む草庵近くに、鹿が迷い込んでくることがありました。僧都はその度に飛んでいって力任せに鹿を殴り、鹿は悲鳴を上げて逃げていきます。何度も繰り返されるその光景に、弟子たちは「私たちを襲うような動物でもないし、何も殴らなくても」と顔を歪めていました。そしてある日、咎める弟子に僧都はこう答えました。
「これが慈悲というものではないか?私も鹿が憎いのではなく、命の限り生きて欲しいと思っている。この山にいるのが私たちだけなら、三度の飯を二度にしても鹿に与えてやりたい。しかし、山裾の至る所に罠が仕掛けられ、沢山の猟師がいる。私が餌を与え養ったら、鹿は人を見るや猟師にまですり寄っていくことにならないか。だから私は、人間は恐ろしいものだから近づくなと教えている」
弟子たちは、鹿を殴り追い払う師の姿に、厳しい「慈悲」の姿を学びました。同情と慈悲は似て非なるものです。同情は、思いやりの心で動き温かく見えるもので、常に美しいものと思いがちです。しかし、時には同情により甘えが生まれ、向き合い乗り越える機会を奪ってしまうこともあるでしょう。同情する心に実は優越感が潜んでいることも多く、必ずしも美しく優しいものとは限りません。
一方、慈悲はいつも温かく見えるとは限りません。時には僧都のように、傍目には非常に冷たく厳しいものだったりします。しかし、それは本当に相手の身を想い、そのために一見悪役に見えることでも厭わないからこそ出来る崇高な行為でしょう。子どもを叱らない、叱れない大人が増えたと言われて久しい現代。外の評価に怯え無関心を装う大人に囲まれる子どもたちに、世界はどう見えているのでしょうか。
※この「読む法話」は、過去に東本願寺報に掲載された『わたしたちのぶっきょう』を再校正したものです。