東本願寺について

宗旨

宗名
浄土真宗東本願寺派
宗祖
親鸞聖人/見真大師
開基(東本願寺)
教如上人(第十二世)
本尊
阿弥陀如来
本山
浄土真宗東本願寺派 本山 東本願寺
教典
『仏説無量寿経』
『仏説観無量寿経』
『仏説阿弥陀経』

寺宝

本尊 阿弥陀如来像

東京都指定有形文化財。嘉禄2年頃(鎌倉時代)の作とされる。慶長14年、本堂が現在の淡路町付近から神田明神下に移転する際に上納された。 平成2年に修復された際には、
「四天王寺寳塔之心柱切
 三尺阿弥陀佛御衣木
 嘉禄二年九月十二日奉請之」
と銘文が記された木簡が、胎内より発見されている。(※木簡自体は、江戸時代に修復された際のもの)
幾度の火災にも焼失をまぬがれ、今も本山本堂にてその御姿を拝することができる。

親鸞聖人御絵伝 三幅・四幅

三幅
絹本着色。作者は不詳だが、絵は信州塩崎の康樂寺・浄賀法眼の筆と伝えられる。
第一幅は最下段より順次上段に及ぶ「竪絵伝」通途の様式であるのに対し、第二と第三幅は、上段より下段へと及ぶ他に例を見ない様式をとっている。

四幅
本山東本願寺が「江戸神田光瑞寺」と称していた慶長年間に、東本願寺第十三世・宣如上人より下附された。
前述の三幅の御絵伝に、「蓮位夢想」「入西鑑察」の二段の絵想を加えたもので、御正忌には南余間に奉懸する。

箱根御真影

親鸞聖人御自刻像とも伝えられる。元来、箱根権現別当で真言宗に属した箱根山金剛王院境内の「親鸞堂」に御安置されていた。
東本願寺に寄贈され、平成24年から約1年半をかけ、全国の末寺や、長野県善光寺や高田派本寺専修寺など、宗派を越えて御巡光された。
平成26年6月、御巡光の結びとして、牛久本廟御遠忌の際に本廟へ御奉安され、現在に至る。

仏舎利

順徳天皇をはじめ御公卿方が佐渡にお移りになった際に、ある大納言が京都より奉持したものとされる。
縁あって、佐渡の念仏者から東本願寺に寄贈され、保管していた。現在は、牛久大仏胎内に御安置している。

シャムの釈迦如来像

東本願寺第二十三世御法主の彰如上人(大谷光演台下、句仏上人)がシャム国(現タイ国)より寄贈されたもの。鋳造より一千年以上が経過している。
明治33年、シャム国公使である稲垣満次郎氏の斡旋により、シャム国から世界仏教の一致を目的として、日本に釋尊の仏舎利(ご遺骨)が分与されることになった。
彰如上人は奉迎正使に選出され、シャム国王より日本仏教徒と彰如上人にそれぞれ1体ずつ、釈迦如来像が寄贈された。
現在は、牛久大仏胎内に御安置している。

寛永の大梵鐘

寛永7年(1630)頃のものと推定されている梵鐘。都内に現存している梵鐘の中では有数の風格を誇り、慈光殿屋上の鐘楼堂に吊されている。
現在は、御正忌と大晦日にその音を聞くことができ、大晦日に限り一般参拝者も撞くことができる。※要事前申込

棟方志功の襖絵

縁あって、昭和36年に棟方志功氏が東本願寺茶室「紫雪亭」の襖など大小28枚を一気に書き上げられたもの。
平時は一般開放せずに保管しているが、数年に一度、行事の折に展覧会が開催され、観覧することができる。

憲政碑

本山の正門左脇に聳え立つ、高さ7メートルを超える巨大な石碑。元代議士の胎中楠右衛門が発起人となり、昭和12年に建碑された。
第1回地方官会議が明治8年に浅草本願寺で開かれたことに因み、「日本国における衆議公論発祥の地」であるとして、憲政功労者の顕彰を目的に建てられた。

東本願寺の法統

01念仏の教え −宗祖・親鸞聖人−

浄土真宗の御開山・親鸞聖人(1173~1262)は、平安時代の終わりに京都で生を受けられ、幼くして両親と死別されました。そして、9歳の時、青蓮院門跡の慈圓和尚のもとで出家され、僧侶となられました。
その後20年もの間、親鸞聖人は比叡山で厳しい修行に励まれましたが、全ての人々を真に救いうる教えを悟るには至りませんでした。自力で煩悩を滅する道では全ての人々を救うことができないと思われた親鸞聖人は、比叡山をおりる決心をされました。時は建仁元年(1201)、長引く源平の争乱で京の町も荒れ果て、多くの民衆が苦しみ迷っていた時代です。
29歳で下山された親鸞聖人は、聖徳太子が創建された六角堂(京都・頂法寺)にて、100日間参籠されます。そして、95日目に夢告を受けられ、新たな教えと出遇うべく吉水へ向かわれるのです。
吉水では、法然上人(1133~1212)がお念仏の教えを弘めておられました。自らではなく、阿弥陀仏によって万人が救われる他力の教えです。その教えに感銘を受けられた親鸞聖人は、法然上人のもとで「本願他力のお念仏の教え」に帰依されました。そして、法然上人から主著『選択本願念仏集』の書写を許されるほど、ご信心を深められるのです。

02立教開宗

法然上人により、身分や生まれを問わないお念仏の教えは、瞬く間に世に弘まりました。しかし一方で、既存の他宗派から猛烈な反発を受けるようになりました。そして、承元元年(1207)、ついに朝廷から念仏停止の命が下り、「承元の法難」と呼ばれる弾圧事件にまで発展します。4名の門弟が死罪に処され、法然上人は土佐国へ、親鸞聖人は越後国へ流罪となりました。
流罪となっても、親鸞聖人のご信心が揺れることはありませんでした。僧籍を剥奪され、俗人でもない「非僧非俗」の身となりながら、お念仏の教えを弘める道を歩まれることになるのです。
建暦元年(1211)に赦免された親鸞聖人は、法然上人との再会を願われ、京都を目指します。しかし、法然上人ご往生の一報を受けた親鸞聖人は、京都へ戻るのを取り止め、関東の地での布教を決意されます。常陸国へと向かわれた親鸞聖人は、稲田に草庵を構え、以後20年に及ぶ関東における布教の拠点とされました。
親鸞聖人の布教によって、お念仏の教えは瞬く間に関東一円に弘まっていきました。こうして多くの門弟やお同行が生まれるなか、親鸞聖人は後に浄土真宗の根本聖典となる『教行信証』の執筆を始められます。
60歳を過ぎ、親鸞聖人は関東から京都へ戻られ、数多くの執筆に心血を注がれました。『教行信証』の草稿は元仁元年(1224)に完成したとされ、浄土真宗では現在その年を「立教開宗の年」としています。その後も『浄土和讃』・『高僧和讃』・『正像末和讃』、『唯信鈔文意』や『愚禿鈔』など、数多くの著作を執筆された親鸞聖人は、弘長2年(1262)11月28日、九十歳で往生の素懐を遂げられました。

03本願寺開創 −第3世・覚如上人−

親鸞聖人の曾孫・覚如上人(1270〜1351)の時代、日本中にお念仏の教えが弘まった一方で、様々な異義も現れ始めます。これを憂いた覚如上人は、正当なるお念仏の教えを伝える場所を開かれます。
覚如上人は、親鸞聖人の末娘・覚信尼公が親鸞聖人の御遺骨を埋葬すべく建てられた「大谷廟堂」を、「本願寺」と改められました(通称:大谷本願寺)。親鸞聖人以来の本流はここにあるとし、本願寺を中心に教団の統一を目指されたのです。しかし、当時その本意は理解されず、本願寺は衰退の一途を辿ります。

04中興の祖 −第8世・蓮如上人−

時は流れ、室町時代。寒々とした寂しい本願寺の一隅で、蓮如上人(1415〜1499)がご誕生されました。蓮如上人は幼くして生母と生き別れ、苦学の日々を過ごされるなど、数々のご苦労の末に親鸞聖人のご法義を修められました。
43歳で本願寺住職となられた蓮如上人は、近江を中心に布教されました。蓮如上人の明解な教えはわかりやすく親しみやすいもので、瞬く間に民衆に広がりました。その中でも著名なものが、教義を仮名文字で記し手紙として各地に送られた『御文』です。これにより、本願寺には多くの参詣者が途絶えることなく訪れるまでになったのです。
しかし、その爆発的な興盛は、またしても他宗派から反感を招きました。様々な迫害を受けるようになり、とうとう比叡山の衆徒によって本願寺は跡形もなく破壊されます(大谷破却)。
妨害や迫害に追われながらも教化を続けられた蓮如上人は、争いを避け、新天地を求めて北陸へと旅立たれるのでした。

05本願寺再建

その後、蓮如上人は越前の吉崎に坊舎を建てられ(吉崎御坊)、北陸の地で布教されました。すると、わずか一年で越前や加賀のみならず奥州や出羽にまでお念仏の教えが弘まり、吉崎は本願寺以上の大変な賑わいとなりました。しかし、それは更なる迫害を呼び、今度は吉崎御坊が火災に見舞われます。そして、ついに蓮如上人の制止も空しく、武力衝突へと発展してしまうのです。蓮如上人は争いを鎮静化すべく、吉崎を離れて京都・山科へと向かわれます。
山科に移られた蓮如上人は、本願寺の再建に心血を注がれ、以前に預けておられた親鸞聖人御真影をお迎えして御影堂を建立します(通称:山科本願寺)。こうして悲願であった本願寺再建が果たされ、親鸞聖人の御命日には大勢の御同行とともに、お念仏の声高らかに報恩講を厳修しました。
蓮如上人はその山科にて、明応8年(1499)に85歳でご往生されました。蓮如上人は、近畿各地で教化に励まれる中で、いくつかの坊舎を建てられました。その中の一つ、大坂・石山御坊は、後に大きな歴史の荒波に飲み込まれていきます。

06争乱の足音 −第10世・証如上人−

応仁の乱に端を発した天下の暗雲は、本願寺をも巻き込んでいきます。蓮如上人の曾孫・証如上人(1516〜1554)は、五歳で父・円如上人と死別され、続いて祖父・実如上人が亡くなられたことにより、わずか十歳で本願寺を承継されました。御苦労は更に続き、蓮如上人が心血を注いで建立された山科本願寺も、近江大名の六角氏や法華宗徒によって焼き討ちに遭います。
證如上人は大坂石山御坊に移り、そこを本願寺と定められました(通称:石山本願寺)。世の混沌は更に勢いを増し、本願寺の歴史に大きな爪痕が刻まれることになります。

07戦国の世 −第11世・顕如上人−

時は戦国時代。織田信長の台頭により各地で戦乱が激化するなか、顕如上人(1543〜1592)は教化に励まれていました。しかし、ついに本願寺に魔の手が伸びてきました。信長が本願寺を見て一方的に「ここに城を築くので本願寺を移転せよ」と通達してきたのです。顕如上人は、当然のことながらこれを頑なに拒否されました。
激怒した信長は本願寺を攻め続け、顕如上人は雑賀衆やご門徒方とともに防がれました。実に11年間にも及ぶ「石山合戦」です。その後、天正8年(1580)3月、長き戦いに対して講話の勅命が下り、顕如上人は信長に石山本願寺を明け渡し、紀州・鷺森に移られました。
ご長男の教如上人(1558〜1614)は、信長への不信から退去を拒否され、顕如上人より義絶されるものの、最終的には断念して鷺森に退かれました。こうして、蓮如上人が礎を築かれた石山本願寺は、信長の手に渡ることになりました。
しかし、天正10年(1582)6月、本能寺の変によって信長が討たれます。教如上人の義絶を解かれた顕如上人は、大阪・貝塚を経て、豊臣秀吉から譲り受けた大阪・天満にて、本願寺を再建されます。そして、天正19年(1591)には、再び秀吉から寄進された京都・六条堀川の十万坪余の土地に寺基を移されました。

08東西分立 −第12世・教如上人−

戦国の乱世も終わりが近づき、顕如上人は長男の教如上人とともに京都・堀川の本願寺に移られ、天正20年(1592)には阿弥陀堂と御影堂を建立されました。その年、完成を見届けた顕如上人が50歳で御往生され、教如上人が本願寺を継職されます
ところがその三年後、天下人の豊臣秀吉が介入し、教如上人は突如として隠居を命じられます。代わって本願寺継職を指名されたのは、顕如上人の三男・准如上人でした。
時は流れ、慶長7年(1602)。秀吉に代わり天下人となった徳川家康は、後陽成天皇の勅許を元に、隠居されていた教如上人に京都・七条烏丸の寺領を寄進して招聘しました。教如上人は、その地に阿弥陀堂と御影堂を建立され、本願寺を創立されました。
これにより本願寺は二つに分かれ、その位置から堀川七条の本願寺(准如上人)を「西本願寺」、烏丸七条の本願寺(教如上人)を「東本願寺」と称するようになります。徳川家康は本願寺を東西に分かつことで、教団としての勢力を二分し、戦国時代のような一大勢力となることを防いだとも言われています。

09昭和の法難 −第24世・闡如上人−

激動の現代。親鸞聖人の法統を受け継がれたのは、闡如上人(1903〜1993)でした。闡如上人は、終戦後に荒廃していた人々に、お念仏の教えを弘められました。大谷楽苑を設立し、仏教音楽を通じて戦後日本の文化的復興に尽力されて、その御感化は海外にまで及びます。闡如上人は、昭和24年(1949)に蓮如上人四百五十回忌法要を、昭和36年(1961)には親鸞聖人七百回忌法要を厳修するなど、法統護持に尽力されました。
しかし、昭和44年(1969)、当時の反体制革命思想などに影響を受けた宗政家達に煽動され、東本願寺と包括関係にある真宗大谷派内部から、法主制を廃する案が打ち出されました。闡如上人は、法統護持のため真宗大谷派との包括関係を解き、東本願寺の独立を目指されます。それに呼応して、闡如上人の長男・興如上人(1925〜1999)は、自身が住職を務められる東京本願寺の独立を進められました。
しかし、昭和56年(1981)5月、改革派は宗憲を変更して法主を廃し、同時に本願寺住職と管長の役職を廃止しました。同年6月15日には、東京本願寺が東京都知事の認証を得て大谷派からの独立を実現しますが、改革派の動きは更に激化します。

10真の法統 −第25世・興如上人−

昭和62年(1987)、改革派は「宗本一体の実現」として、包括法人の「本願寺」を被包括法人の「真宗大谷派」に吸収合併しました。そして、正式名称を「真宗本廟」に変更し、宗教法人「本願寺」を解散したのです。これにより、真宗大谷派は、従来の東本願寺とは全く異なる宗教団体へと変質することになりました。
700年の法統が断絶する危機に、昭和63年(1988)2月29日、興如上人は阿弥陀如来の御尊前で、本願寺第二十五世を継承されました。同時に、東京本願寺を本山とし、ともに独立した数百ヶ寺の全国独立寺院と「浄土真宗東本願寺派」を結成されました。こうして親鸞聖人以来の正当な法統は、浄土真宗東本願寺派本山・東京本願寺において継承されました。
興如上人は、立教開宗の基となった『教行信証』が著された茨城県に「牛久アケイディア」を設立されました。高さ120メートルの阿弥陀大仏、親鸞聖人と歴代御法主の御真骨が収められた「本廟」などが建立され、東京本願寺とともに全国門信徒の拠り所となったのです。
また、ひばりが丘別院や八王子の杜公園墓地など、首都圏を中心に教化の拠点を設立され、法難を逆縁とされながら念仏弘通の道を歩まれました。

11法統伝承 −第26世・聞如上人−

東本願寺の独立と宗門の護持にご生涯を捧げられた興如上人は、平成10年(1998)に蓮如上人500回御遠忌法要を厳修した翌年、平成11年(1999)12月24日に往生の素懐を遂げられました。そして、親鸞聖人から連綿と受け継がれてきた法統は、聞如上人(1965〜)へと受け継がれます。
平成13年(2001)4月26日、本山東京本願寺の寺院規則変更が認証され、名称が「東京本願寺」改め「浄土真宗東本願寺派本山東本願寺」となりました。これによって、名実ともに東本願寺の正しき法統を受け継ぐ本山として、立教開宗の精神に基づき、法主の導きのもと御同行御同朋と歩む和合の僧伽として、新たなる一歩を踏み出しました。
平成23年(2011)には親鸞聖人750回御遠忌法要が宗門を挙げて盛大に厳修され、平成28年(2016)には蓮如上人御生誕600年慶讃法要が、令和8年(2026)には宗祖親鸞聖人御誕生850年慶讃法要が厳修されるなど、親鸞聖人以来800年続く法統は、この浅草の地で今も護持されています。

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