浄土真宗の教え


01

私たちのみ教え(浄土真宗)

いまから2500年以上前にお釈迦様によってお説きいただいた仏法は、いついかなる時代にあっても変わることのない、普遍の教え、真実の教えです。
その仏教は、インド、中国、そして、朝鮮半島を経て、幾多のご苦労の中、私どもの日本に伝来しました。その中でも、お念仏の教えは、インド、中国の高僧方によってお伝えいただきました。
そのお念仏の教えを日々の生活で悩み苦しむ私たち、苦しみを苦しみとも感じずにいる無明の中の私どもに、お念仏の教えとしてわかりやすくお説きくださったのが、親鸞さまです。
親鸞さまが私たちにお教え下さった浄土真宗のみ教えは、「阿弥陀さまの本願を信じ、念仏申せば仏となる」というお念仏のみ教えです。そのお念仏のみ教えは、私たち一人一人のかけがえのない人生を活かし、受け止め、生きる大いなる道です。
忙しい毎日に追われ、目先のことにとらわれて、人生において大切な意味を見失っています。私どもに伝わるまで長い年月受け伝えていただいた浄土真宗のみ教えは、その苦悩の中、何ものにも妨げられることのない、力強い生き方、明るく確かな真に安心して歩んでいける道へと導いてくださる教えなのです。


02

私たちの仏さま(阿弥陀仏)

「五劫があいだこれを思惟し、永劫があいだこれを修行して、それ、衆生のつみにおいては、いかなる十悪・五逆・謗法・闡提のともがらなりというとも、すくわんとちかいましまして、すでに諸仏の悲願にこえすぐれたまいて、その願成就して阿弥陀如来とはならせたまえるを、すなわち阿弥陀仏と申すなり」

阿弥陀さまはすべての生きとし生けるものすべてをお救いくださる仏さまです。阿弥陀さまは、限りない命、限りない光として何ものにも障げられない無限にはたらく仏様です。ですから、阿弥陀如来、無量寿佛、無量光佛、不可思議光如来、尽十方無碍光如来とも申し上げるのです。
長い間の思惟と、長い間のご修行によって、どれほどの業にまみれたものでも、救ってやりたいとお誓いいただいた願いが成就されて、阿弥陀さまとなっていただいているのです。
仏教では沢山の仏さまが説かれていますが、悩み煩わされながら日々を送っている私たち、諸佛に捨て果てられる凡夫を救って下さる仏さまは阿弥陀さまです。阿弥陀さまは私たちの知識でははかりしれないほど大きなお心で、いつも私たちを見守って下さっている仏さまなのです。


03

広大なるお心(本願)

「五劫思惟の本願といふも、兆載永劫の修行といふも、ただ我等一切衆生をあながちにたすけたまはんがための方便に、阿弥陀如来、御身労ありて、南無阿弥陀仏といふ本願をたてましまして、まよひの衆生の一念に阿弥陀仏をたのみまいらせて、もろもろの雑行をすてて、一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚取らじと誓ひたまひて、南無阿弥陀仏と成りまします」

浄土真宗では阿弥陀如来の本願を信じることとお教えいただいています。その本願とは、その阿弥陀さまの誓われた願いです。その願いとは、生きとし生けるものすべてを救いたいという、この上なく深い願いです。
『仏説無量寿経』というお経には、四十八の願いが説かれています。これは阿弥陀さまが法蔵菩薩として修行されているときに立てられた誓願であり、その誓願が成就し、阿弥陀さまとなられたことが経典には説かれています。
親鸞さまは、その四十八の願いの中、十八番目の願いが、この世にあってさまざまな不安の中にいる私たちのために立てられた真実の願い(本願)であるといただかれ、蓮如さまはこのことを私たちに平易にお教え下さっているのです。


04

仏さまの喚び声(名号)

「南無の二字は、衆生の弥陀如来にむかひたてまつりて後生たすけたまへともうすこころなるべし。 かやうに弥陀をたのむ人を、もらさずすくひたまふこころこそ、阿弥陀仏の四字のこころにてありけりとおもふべきものなり」
お名号とは、「南无阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」の六字のことを申します。このお名号には、私ども衆生を救いたいと願っていただいた阿弥陀さまの本願のお心そのままがそなわっているのです。お念仏は「南無」とたのむ私たちを、救おうと立ち上がられ、私の名を称えなさいと仰っていただいた「阿弥陀仏」の名告りであり、私たちを喚んでくださる声であります。


05

信じること聞くこと(聞即信)

「信ずる心も念ずる心も、弥陀如来の御方便よりおこさしむるものなりとおもふべし。かやうにこころうるを、すなはち他力の信心をえたる人とはいふなり」
浄土真宗では、信心が肝要とお教えいただいております。真実の信心とは何か。疑いの心、自分の計らう心を捨てて、阿弥陀さまのみ教えを一心に信じる。私どもの身に起こる様々な迷いや疑う心を見とおして「おまえを救うぞ」と、阿弥陀様から願い続けていただいているのです。そのことを私一人のためにしていただいていたという、その心になった時、すでに摂取不捨のもと、すくいとっていただいていたと信じる心が発るのです。そして、その心も、すでに阿弥陀様から頂戴していた心といただけます。そして、我が身に起こる様々な迷いや疑いも、その迷う心も、ああ、阿弥陀様の願いによって受け止めていただいていると報恩感謝の心が発る。仏様の願いがそのまま私の信じる心になるので、その心を他力の信心というのです。


06

仰せのままに(たのむ)

「それ、信心をとるというは、ようもなく、ただもろもろの雑行雑修自力なんどいうわろき心をふりすてて、一心にふかく弥陀に帰するこころの疑なきを真実信心とは申すなり。かくのごとく一心にたのみ、一向にたのむ衆生を、かたじけなくも弥陀如来はよくしろしめして、この機を、光明を放ちてひかりの中におさめおきましまして、極楽へ往生せしむべきなり」
「仰せのまま」にとは、私どもにとって大切です。しかし、とても難しいことです。何を信じたらいいのか、ともすればどうしても疑う心になってしまいます。あるがままに受け取り、阿弥陀さまから「たのめ」の喚び声にその仰せのままに「たのむ」心を起こすことがどれほどの安心か。浄土真宗第八代の蓮如さまは、この「たのむ」ことの大切さ、私の自力のはからい、阿弥陀さまへの請い求める心、疑いの心が一切いらないということ、すべてをおまかせすることをお教え下さっております。


07

あるがままの姿(凡夫)

「阿弥陀如来のおおせられけるやうは、末代の凡夫、罪業のわれらたらんもの、つみはいかほどふかくとも、われを一心にたのまん衆生をば、かならずすくふべしとおおせられたり」
私どもは、日々の生活に追われ、一喜一憂しています。 仏教では、真相に明らかでない、真実を知らないことを無明と言います。闇の中にいるものがいくら目を開けても本当の姿はみえません。私たちは多くの命に育まれ支えられ、また多くの罪をつくりながら生きています。こうした本当の姿は、一筋の光に照らされてはじめて明らかに知らされるものです。
阿弥陀さまのまことの光に照らされたとき、はじめて私たちの本当の姿が照らし出されます。仏法をいただき、真実に触れることで、ようやく、ありのままがありのままに頂けます。虚仮不実のこの世界のありのままが、また我が身の姿が明らかに知らされた時、同時にそこに阿弥陀さまのはたらきに包まれた明るい道が開けてくることでしょう。


08

生死をこえる(後生の一大事)

「人界の生はわづかに一旦の浮生なり。 後生は永生の楽果なり。 たとひまた栄花にほこり栄耀にあまるというとも、盛者必衰会者定離のならいなれば、ひさしくたもつべきにあらず」
私たちは浄土や後生というと遠い先のことのように思ってしまいます。しかしながら、私たちの人生はいつ如何なることになるかわかりません。生死は表裏一体と申します。
この世は常に移り変わる無常の世界であり、そのような中で人生を生きているのです。そうした世にあってどんなに物質文明が進んでも、生死の世界を生きる本質は変わりません。そして、その真実に目覚めたとき、後生の一大事が知らされます。
そしてその後生が解決されたとき、自ずと今の不安、迷い、今生(こんじょう)が解決されてくるのです。後生の解決なくして、今生の解決(真に安心して進んで生ける道)はないのです。蓮如上人はこの今生こそ、その与えられたチャンスとお教え下さっています。今聞くことなくして、いつ聞くのでしょうか。


09

お念仏(称名報恩)

「ありがたさとうとさの、弥陀大悲の御恩をば、いかがして報ずべきぞなれば、昼夜朝暮には、ただ称名念仏ばかりをとなへて、かの弥陀如来の御恩を報じたてまつるべきものなり。 このこころすなわち当流にたつるところの、一念発起平生業成といえる義、これなりとこころうべし」
少し以前の日本の風景を思うと、私どものまわりに、毎日の生活の中でお念仏を称えておられるおじいさん、おばあさんがおられたことを思い出します。
仏さまのお心を、真実を、ありのままに聞かせていただくときに、そのご恩報謝の心が起こり、思わずお称えするお念仏、そのお念仏を口に称えることを称名といいます。
真に仏法をいただくと報恩感謝のお念仏となって「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」が私の口から自然に出てくるのです。
そのお念仏、南無阿弥陀仏のお名号は、阿弥陀さまからの喚び声として、いつでもどこでも私どもによびかけられています。ですから、いつでもどこでも誰でもがお称えできるお念仏として私どもにお与えいただいています。
阿弥陀さまのお心をいただいたことは、そこにすでに仏さまの願いが成就されており、私の口からでるお念仏がすでに御恩報謝ともなっています。称名がそのまま仏恩報謝のお念仏となっているのです。お念仏を称えられることはまことに尊いことであり、私の称えたお念仏がまわりの方のお念仏ともなり、ともにお念仏を悦び、互いに敬い、助け合い分かち合う、調和の世界が生まれてくることでしょう。
信心というすがたは名号の体となるもので、さらに言えば、仏さまのお手もとにあるときは本願であり、名号であり、私の心に至って信心となり、口にはお念仏となり、体に現れて合掌礼拝となるのです。
それはすべて南無阿弥陀仏のひとりばたらきなのです。仏さまのみ教えは、私たちがこの身にいただいたとき、はじめて生きた教えとなり、必ずや私たちに生きる力と勇気を与え、そして心の底から悦びに満ちた明るい生活を送ることができるでしょう。