関東における歴史 -大正時代から昭和へ-


01

明治時代前期の浅草本願寺

井上安治(いのうえやすじ)

井上 安治(元治元年 ―1864年― 誕生日不明 - 明治22年(1889年)9月14日) 版画家。本名は安次郎。「最後の浮世絵師」、または「明治の広重」と言われた小林清親の一番弟子とされ、短命であったが光線画に優品を残した。
その井上安治の作品に、東京名所絵(東京真画名所図解)全134点がある。それは、明治初期の東京を隈なく描いた資料的価値も高く、明晰で透明感のある色調や空間表現を用いることで、明治初期の作品でありながら、江戸から生まれ変わった東京を描くのに成功したと言われている。
その中、二つの作品に浅草本願寺が描かれている。一つ目は、「浅草東門跡」と題された、

明治時代前期の浅草本願寺 01

東京都江戸東京博物館所蔵

である。
往時の御本堂等々の威容をやわらかく描いてあることが分かる。また二つ目は、

明治時代前期の浅草本願寺 02

東京都江戸東京博物館所蔵

で、「浅草広小路」と題された作品である。浅草広小路から西をむき、浅草本願寺の大屋根が大きく描いてある。 
明治初期において、浅草本願寺がこのように描かれたことには、大きな意味合いがあると考えられる。大きな甍、大屋根が富士山の如く描かれていることは、浅草本願寺の大屋根が、如何に、近隣に安心感、また、「仰ぎ見る尊さ」を教えていた証ではなかったであろうか。


02

大正三年(1914年)の浅草本願寺

第一次世界大戦の俘虜収容所としてつかわれた

捕虜収容の経緯であるが、1914年、第一次世界大戦で日本軍はドイツの極東根拠地・中国の青島を攻略した結果、約4700人のドイツ兵が戦争俘虜となった。
ドイツ側降伏後すぐに東京では政府により対策委員会が設置され、当時の陸軍省内部に、保護供与国と赤十字との関係交渉を担当する「俘虜情報局」を開設。俘虜の方たちは貨物船で同年の11月中に日本に輸送され、北海道を除く全国各地の都市に点在する収容所に振り分けられた。その中、東京の収容所として、浅草本願寺が使用された。
実際には、大正3年(1914年)11月より、砲艦「ヤーグアル」乗組員と、クーロ中佐の率いる東アジア海軍分遣隊、計314名を収容。大正4年(1915年)9月に千葉県習志野に新たな収容所が完成し、そこに移転された。
当時の画像を見ると、守衛の立った正門の画像が残っている。

大正三年(1914年)の浅草本願寺 01

少々物々しい感じもするが、収容されたドイツ人俘虜の皆さんは、指揮官の下、サッカーを楽しんだりして、統率のとれた生活を送っていたことが記録に残されている。
また、別の画像では、

大正三年(1914年)の浅草本願寺 02

と、くつろいだ雰囲気が伝わってくる。これは、当時浅草の本願寺内で組織された、「アルフォンス・ヴェルダー合唱団」の集合写真とのことで、中央のヴェルダーは指揮棒を、団員は手に楽譜をもっている。
ドイツ人の俘虜の方たちは、浅草の本願寺の境内地に収容されていたのであるが、その模様が数枚の画像から伺われる。

大正三年(1914年)の浅草本願寺 03

大正3年11月28日の「東京朝日新聞」に掲載された俘虜の皆さんの体操の模様である。提灯や境内の樹木、そして鐘楼であろうか建物がみとめられる。
また、洗濯物を干している画像も残されている。実際に伽藍のなかで生活していた様子が分かり、興味深いものである。

大正三年(1914年)の浅草本願寺 04

当時の浅草の本願寺の境内の様子が、見取図に残されているが、それを見ると、

大正三年(1914年)の浅草本願寺 05

となっており、「鐘」や「洗濯場」といった記載があり、上掲の画像と見比べると、より具体的に境内の実際を確認できる。
これらの他にも、本堂の裏手にあった玄関で撮影されたものであろうか、集合写真が残されている。

大正三年(1914年)の浅草本願寺 06 大正三年(1914年)の浅草本願寺 07

第一次世界大戦という大きな歴史の変革の時にあって、浅草の東本願寺の境内地は、これだけの歴史的なはたらきをしていたと頷かれる。

掲載写真協力御礼
千葉県 星昌幸氏
丸亀市 小阪清行氏


03

大正十二年(1923年)、関東大震災による浅草本願寺の被害

関東大震災は、大正12年(1923年)9月1日(土曜日)午前11時58分32秒、神奈川県相模湾北西沖80km(北緯35.1度、東経139.5度)を震源として発生したマグニチュード7.9、海溝型の大地震(関東地震)による災害であった。
浅草本願寺の本堂は、震災の揺れそのものには耐えた建物もあったようであるが、その後発生した火災によって一切を焼亡してしまった。そのときの画像が、『関東大震災と東本願寺』に載っているので、それを転載する。

大正十二年(1923年)、関東大震災による浅草本願寺の被害

『関東大震災と東本願寺』所載

現在の境内地のどこからどこを向いての撮影であるかも定かでないほどに、全く灰燼に帰してしまった様子が分かる。火災の恐ろしさを物語るとともに、当時経蔵に収蔵されていた坂東本『教行信証』が、一部分は被害を受けたが、焼失を免れたことが如何に稀有のことであったか思われる。


04

大正十二年(1923年)、関東大震災以後の浅草本願寺

関東大震災による浅草本願寺の復興活動

『関東大震災と東本願寺』、『浅草本願寺史』によれば、大震災に被災した中から、浅草本願寺は、復興活動に全力を尽くしていることが伺われる。九月五日には海路救援物資が到着し、同十七日には陸路にて物資が到着しており、境内地を中心として、救援活動が本格化している。
『関東大震災と東本願寺』にはそれらの画像もあるので、ここに転載する。

大正十二年(1923年)、関東大震災以後の浅草本願寺 01 大正十二年(1923年)、関東大震災以後の浅草本願寺 02

と、境内に救援物資が溢れていることが分かる。
また、本格化した救援活動は多岐にわたり、慰問配給、保健衛生、死体救護、弔葬、慰安等の特別事業に加え、児童保護、診療、簡易宿泊、職業紹介、人事相談、公衆食堂、婦人保護の施設等々が建設され、活発に活動が行われた。

無料理髪、横浜の無料診療所、そして浅草本願寺移動浴場の画像である。

大正十二年(1923年)、関東大震災以後の浅草本願寺 03

本願寺公衆食堂は、

大正十二年(1923年)、関東大震災以後の浅草本願寺 04

となっていたようである。
また、境内に設置された「隣保事業部」は、

大正十二年(1923年)、関東大震災以後の浅草本願寺 05

「職業紹介所」、「人事相談所」「バッラク事務所」、その他の施設があったようである。
また、幾つか開設された託児所の中、池之端託児所の画像が残っている。

大正十二年(1923年)、関東大震災以後の浅草本願寺 06

歴史の転換点ともいえる大災害の時にあって、浅草本願寺がどれだけの活動を行ったかが伺われる。

上記以外にも、追悼法要を始めとして、精神救済のためとして被災者に対して、『御文』寄贈、パンフレットの配布、野外劇の上演等々が行われており、どれだけたくさんの門信徒が救援に加わり、また救われていったかは、想像することもできない。


05

大正12年(1923年)12月の浅草本願寺

仮本堂の建立

9月1日の大震災発生後、境内地を中心に救援・復興支援が行われてゆくのであるが、記録によれば、大正12年10月20日には、被災死亡者大追悼法要が執行されており、12月10日には、仮本堂が再建されて遷佛法要が行われている。

大正12年(1923年)12月の浅草本願寺

『関東大震災と東本願寺』所載

この仮本堂は、記録によれば、尾張門徒中の篤志により海路輸送された木材をもって、昼夜兼行で建立作業が行われた十間四面のものであったとのことである。