東本願寺の法統


01

念仏の教え

念仏の教え

浄土真宗の御開山親鸞聖人(1172〜1262)は、平安時代の終わりに京都で生を受けられ、幼くして両親と死別されました。
9歳の時、青蓮院門跡慈圓和尚のもとで頭を丸め出家され僧侶となられました。
その後20年比叡山で厳しい修行をなされましたが、ついに世の人々を真に救いうる教えが何であるかを悟ることはできませんでした。 源平の争乱が長引き、京の町も荒れ果てて、多くの人々が苦しみ迷っていたのです。
「叡山での修行では、御仏の光を見つけることができないし、ましてや迷える人々に救いの手をさしのべることもできない」と親鸞聖人は思われ、山をおりる決心をされました。
その後、聖徳太子を奉安した六角堂での夢告もあり、新たな教えと出会うこととなるのでした。
その頃京都では法然上人(1133〜1212)がお念仏の教えを広めておられました。 お念仏の教えを聞きに法然上人のもとを訪ねられた親鸞聖人は、まるで雷に打たれたようにショックを受けたのです。
この法然上人のもとで、親鸞聖人は本願他力のお念仏の教えを、あたかも乾いた大地に雨がしみていくように吸収されました。
親鸞聖人は法然上人にお会いできたことを心から喜ばれたのでありますが、その後訪れる悲劇をこの時、一体誰が知っていたでしょうか。


02

立教開宗

立教開宗

法然上人の念仏の教えが盛んになってきたことを快く思っていない人たちの陰謀によって、法然上人は土佐に、親鸞聖人は越後に流され(1207)離ればなれにさせられてしまいました。
親鸞聖人は深い悲しみに沈まれましたが、法然上人に教えていただいたお念仏の教えを越後の国でも広めようと思い立たれたのでした。遠く離ればなれになった法然上人のお心に通じるだけでなく、当時の都から離れたところに仏法を弘め人々を救うことが、阿弥陀如来の願いであると思われたのです。
その後、流罪を赦された(1211)親鸞聖人は一刻も早く法然上人と再会しようと、雪深い北陸路をさけ雪解けの早い関東から一路京都を目指されました。
その途中法然上人がお亡くなりになったという訃報を受けた親鸞聖人は、法然上人と再会できないならば、京都へは戻らず関東の地で布教をしようとお考えになり、稲田を中心に布教を始められました。
瞬く間にお念仏の教えは関東一円に広まっていきました。
この頃親鸞聖人は浄土真宗の根本聖典である『教行信証』を著されました。その年(1224)を以て浄土真宗では立教開宗の年としてしています。
その後、関東から京都へ戻られた親鸞聖人は多くの著書を作られ、九十歳で御浄土に還られました。


03

本願寺開創

本願寺開創

親鸞聖人がお亡くなりになった後、末娘の覚信尼公が親鸞聖人の御骨を京都の大谷というところに御堂を建てて埋葬されました。これを大谷本廟といいます。
その後、親鸞聖人の御弟子の唯円(1222〜1289)という方が聖人のみ教えが正しく伝わっていないことを嘆かれ、『歎異抄』という書物で、その異義を正されました。
時は流れ親鸞聖人の曾孫の覚如上人(1270〜1351)の時代になると、真宗念仏のみ教えは日本中に広まりましたが、その一方で様々な異義もまた現れました。
このような状況の中で覚如上人はお念仏の教えの純粋性を高らかに主張され、大谷本廟を本願寺と改められ、親鸞聖人よりの本流はここ本願寺にあるとし、本願寺を中心として真宗教団全体としての統一を目指されました。
しかし当時の各地の御門徒は覚如上人の純粋にして高潔高邁な理想が理解できず、本願寺に参詣する人もまばらとなり、本願寺は衰退の道をたどるのです。そう、ある人物の登場までは・・・・。


04

中興の偉業

中興の偉業

参詣する人もない寒々とした状態の大谷の本願寺の一隅で産声が上がりました。御一代で本願寺教団を日本一にされた蓮如上人(1415〜1499)の御誕生です。
幼くして御生母と生き別れられた蓮如上人は大変な御苦労と御苦学の末、親鸞聖人御一流の御法義を修められました。この結果、み教えは、上人の人格の高みを感じさせながらも誰にでもわかるやさしいものとなったのです。
父、存如上人の後を受け42歳で本願寺住職となられた蓮如上人が、近江地方に布教にまわられるとお念仏の教えは、りょう原の火のごとく瞬く間に当時の民衆にひろがり、大谷の本願寺には参詣者が引きも切らず訪れるようになりました。
しかし、あまりにも爆発的にその教えが広まったために他の宗派から反感を買い、様々な迫害を受けるようにもなりました。そしてとうとう比叡山の衆徒により大谷の本願寺は跡形もなく破壊されてしまったのです。これを「大谷破却」といいます。
けれどもこんな事では蓮如上人の布教への情熱を止めることはできませんでした。
親鸞聖人の御真影を南近江にお移しし、今度はお念仏のみ教えを簡潔にまとめた『御文』(おふみ)というお手紙を数多く書かれたのです。
それが蓮如上人に代わって四方八方に広がって、お念仏の声が各地に轟くようになったのです。
しかし蓮如上人の活躍を快く思わない人たちから様々な妨害を受けるようになり、蓮如上人は争いを避け布教の新天地を求るため一路北を目指し旅立たれたのでした。


05

本願寺再建

北陸に入られた蓮如上人は吉崎というところに落ち着かれ、北陸の人々に布教されました。 するとわずか一年で近くの越前・加賀は言うに及ばず奥州・出羽にまでお念仏の教えが弘まって、蓮如上人に会いたいという人々で吉崎は大変な賑わいとなり、大谷の本願寺以上の参詣者が集まるようになりました。
けれども、蓮如上人は南近江に預けたままになっている親鸞聖人の御真影を御安置する本堂を建てたいと思い続けておられました。
その思いを実現するため北陸の地を離れ、京都の隣、山科の地に本願寺を再建し御真影をお迎えしました。
その年の親鸞聖人の御命日には盛大な報恩講をお勤めし、お念仏の声高らかに大勢の御同行と一緒に本願寺の再建を親鸞聖人に御報告されました。
やっと念願の本願寺再建を果たされた蓮如上人は関西の各地を布教に歩かれ、所々に坊舎をお建てになりました。
中でも大阪の石山というところに隠居所として建てられた坊舎は、後に荒れ狂う歴史の荒波に飲み込まれることとなるのです。そう、天下大乱の足音はもうすぐそこまで迫っていたのです。


06

争乱の足音

争乱の足音

応仁の乱に端を発した天下の暗雲は日本全土を覆い尽くし、本願寺もそれと無縁ではいられなくなりました。
このころの本願寺は蓮如上人の曾孫の證如上人(1516〜1554)の時代でした。
證如上人はわずか五歳で父圓如上人と死別され、そして祖父實如上人がお亡くなりになり、十歳で本願寺を背負うという大変な御苦労をされました。
しかし御苦労はそれだけではとどまらず、あろうことか蓮如上人と御同行が心血を注いで建立された山科本願寺は、他宗徒と近江の大名六角氏に攻められ、紅蓮の炎に包まれてしまったのです。
證如上人は大阪石山の坊舎に移り、そこを本願寺と定められました。これが有名な「石山本願寺」です。
世の乱れはますます勢いを増し、本願寺の歴史に大きな爪痕を刻み込むこととなるのです。


07

戦国の世

戦国の世

顕如上人(1543〜1592)の時代はまさに戦国時代。織田信長が猛威を振るい各地で戦が絶えませんでした。
本願寺とていつ信長に襲われるか分からない緊迫した中で、顕如上人は布教活動をなさっておられました。
ついに本願寺にまでも信長の魔の手が伸びてきました。信長は本願寺を見て、一方的に「ここに城を築くので本願寺を移転せよ」と顕如上人に伝えてきたのです。
当然のことながら顕如上人はこれを頑なに拒否されました。蓮如上人が築かれた法城を再度失うことは思いもよらぬことです。
これに激怒した信長は本願寺を武力で攻めてきましたが、顕如上人は御門徒にこの事態を説明し、よくこれを防がれました。これが歴史の教科書などでお馴染みの、十一年間の長きにわたり繰り広げられた『石山合戦』なのです。
あまりの長期にわたる戦に、時の天皇陛下が和議に立たれたので、長引けば犠牲者が多くでるばかりであると考えられた顕如上人は、信長に石山本願寺を明け渡し、紀州鷺森に移られる御決心をなさいました。
しかし、当時新門であられた長男教如上人(1558〜1614)は、信長の過去の行為から講和後の奇襲も予想されるとお考えになられて、徹底抗戦の構えを崩されませんでした。
が、再度朝廷より和議の命を受け鷺森に退かれました。ついに蓮如上人御苦心の石山本願寺は信長の手に渡ってしまったのです。
顕如上人が鷺森を本願寺とし再興なさろうとしていた矢先、教如上人の予見通り、信長は家臣の丹羽長秀に鷺森襲撃を命じました。しかし命運が尽きたのは、信長の方だったのです。そのときちょうど本能寺の変が起こり、顕如上人も鷺森本願寺も難を逃れました。
その後、顕如上人は貝塚、天満と移られ、その都度本願寺の寺基も移り変わりました。
そして豊臣秀吉から京都七条堀川の地に十万余坪の土地を寄進され、顕如上人はそこに移られ、本願寺の寺基もまたその地に移されたのでした。
戦国の世も終わりに近づき天下太平の槌音が聞こえて参りましたが、この直後に思いもよらぬ出来事が起こるのです。


08

東西分立

東西分立

戦国の世も終わりに近づき、顕如上人は長男教如上人と共に京都堀川の本願寺に移られました。
その翌年(1592)顕如上人が御浄土に御還りになり、教如上人が本願寺を継職され、親鸞聖人御一流の御法義はより一層諸国に弘まろうとしていました。
ところがその三年後、急に時の天下人豊臣秀吉が介入、教如上人は突如として隠居させられる事となりました。
代わりに本願寺を継職されたのは三男の准如上人というお方です。
教如上人は時流を読むのに長けた方でしたので、秀吉は、日本最大の教団に教如上人がおられるのを恐れたのです。
さらに時は流れ、いつしか天下の趨勢は徳川家康の手に落ちていました。家康は京都七条烏丸に寺基を寄進し本願寺を建て、隠居されていた教如上人を招きました。
時の天皇陛下の勅許を賜り、教如上人はこの本願寺に入ることとなりました。
ここに本願寺は二つに分かれ、その位置から准如上人の堀川七条にある本願寺を西本願寺といい、教如上人の烏丸七条にある本願寺を東本願寺と称するようになったのです。
統治能力に優れた家康は、本願寺を東西に分かつことによって、本願寺の力を二分し、幕府の基礎を安泰ならしめたのです。
ここで私たちが覚えていなければならないことは、親鸞聖人御一流の御法義に食い違いが生じて東西に分かれたのではないということです。


09

昭和の法難

昭和の法難

激動の現代にあって、親鸞聖人の法統を受け継がれたのは二十四代闡如上人(1903〜1993)でした。
闡如上人は、終戦後荒廃していた人々の心に、親鸞聖人の御教えにより、広く救済の手を差し伸べられました。
特に、大谷智子御裏方と共に、大谷楽苑を設立し、仏教音楽を通じて戦後日本の文化的復興に尽されて、その御感化は遠く海外にまで及びました。
多くの人々が教化を受けて闡如上人の下に集い、親鸞聖人七百回忌(1961)、並びに蓮如上人の四百五十回忌(1949)の法要も盛大に行われました。蓮如上人四百五十回忌の法要では、京都東本願寺の参詣者だけでも50万人を超えました。
しかし、この一見順風満帆に見えた東本願寺にも、世界の東西冷戦という時代の影響が、暗い影を落とし始めていたのです。
1969年本願寺と包括関係にあった真宗大谷派内部から、当時の反体制革命思想等の影響を受けた僧侶(宗政家)達に煽動され、教義を根底から覆し、親鸞聖人から続いた法統を廃絶しようとする反乱が起きました。
闡如上人は本願寺の法統を守るために、真宗大谷派との包括関係を解き、京都の本願寺を独立させようとされました。そして全国の別院末寺にも独立をするよう命を下されたのでした。
それを受けて闡如上人の長男の興如上人(1925〜1999)は、自身が住職をされている東京本願寺の独立を進められたのでした。 が、悲しきかな1981年改革派は、700年の法統を廃絶するように、宗憲を変更してしまいました。
ここに真宗大谷派は、従来の東本願寺とは全く異なった宗教団体へと変質してしまったのです。
そればかりか、1987年「宗本一体」の実現という名目で、京都の本願寺を法的に閉鎖消滅させてしまいました。
けれども、御仏の光はどんな時代にも、真に信仰ある人々を見捨てません。希望は残ったのです。


10

真の法統

真の法統

東京本願寺は、1981年6月15日東京都知事の認証を得て大谷派からの独立を達成しました。
けれども1987年京都の宗教法人本願寺が閉鎖解散し、法主・住職・法統ともに全て消滅してしまいました。
700年に及ぶ法統が断絶するというこの危機に、興如上人(1925〜1999)は深く歎き悲しまれます。そして念仏三昧のなか阿弥陀如来の願いを憶念され、「これを逆縁として、自ら法統を継承せよ」との御冥意を受けられます。
1988年2月29日、興如上人は「今こそこの御冥意を直ちに具現せねばならない」との使命責務を痛感され、 阿弥陀如来の尊前で、東本願寺第二十五世を継承されました。
同時に、東京本願寺を本山とし、全国独立寺院の数百ヶ寺とともに「浄土真宗東本願寺派」を結成されました。 ここに、親鸞聖人から受け継がれた法統は、浄土真宗東本願寺派本山・東京本願寺において継承されたのです。
興如上人は、御開山親鸞聖人を始め歴代御法主の御真骨を茨城県牛久市に移し、高さ120メートルの阿弥陀大仏が立っておられる、東京本願寺の施設「牛久アケイディア」の一角に、「東京本願寺本廟」を建てられ、全国の門信徒の心のよりどころとされたのであります。


11

法統伝承

法統伝承

御開山親鸞聖人から連綿として受け継がれて参りました東本願寺の美しい伝統は、1999年に遷化された興如上人の後を受け、そのご長男聞如上人(1965〜)へと受け継がれました。
平成13年(2001)、21世紀の最初の年に賑々しく東本願寺第26世 大谷光見法主 傳燈式が挙行されました。

- 名称変更のお知らせ -

本山東京本願寺の寺院規則の変更が平成13年4月26日付で認証され、名称が「東京本願寺」より「浄土真宗東本願寺派本山東本願寺」に変更となりました。
これによって、名実ともに東本願寺の正しき法統を受け継ぐ本山として、御開山親鸞聖人立教開宗の御精神に基づき、御歴代上人のお心を体し、御法主台下のお導きのもとに和合の僧伽として、多くの御同行御同朋の方々と共に、新たなる一歩を踏み出すこととなりました。