私たちの仏教

「私たちの仏教」は東本願寺報の中のコラムの抜粋です。

No.64 落ちるまんまで、落とさんぞ

 仏教とは知識だけで救われるものではないというお話です。
 美濃の国(今の岐阜県)に、あるお婆さんがおりました。このお婆さんは、大変な物知りでございました。読み書きさえ出来ないお婆さんでありましたけれども、お参りしている時には、一言も聞き漏らすまいと、命がけに聞いているものですから何時の間にか、お文さまであろうとお説教で聞いた事は、すべて頭へ覚えておりました。
 そのようなお婆さんでありますから、周りの方々から褒め讃えられたお婆さんでありましたけれども、ふとした病が元で、明日をもしれんという身になってからは、今までの喜びはどこへやら、一変いたしまして「地獄へ落ちる。地獄へ落ちる」と七転八倒の苦しみを始めました。
 そのような苦しむお婆さんをなんとかしてあげたいと思う実の娘さんは京都の本願寺まで香樹院御講師に教えを聞きに行かれました。そこで香樹院御講師に母のことを伝え、助けを求めましたところ香樹院御講師は「自分勝手に、地獄へ落ちるというならば仕方が無いなあ。残念ながら落といてしまえよ」と申されました。これを聞かされた娘さんは悲しみのあまりその場で泣き崩れてしまいました。堪えきれない心のまま帰路に着こうとしたその時、香樹院御講師に呼び止められると「南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。凡夫じゃもんの。地獄へ落ちるは今更の事ではないぞ。石の自性は、沈むのが石の自性なら凡夫の自性は落ちるのが凡夫の自性でないか。その落ちるに間違いのないそのものを、落ちるまんまで、落とさんぞと呼んでくださいますところの御勅命じゃが、それでも自分勝手に落ちるつもりかいや」と阿弥陀さまの慈愛のこころを頂いたのでございます。
 その言葉を聞いた娘さんは寛喜の涙に咽び入りながら、母の元へと急いで帰り、母へ香樹院御講師の御言葉を涙ながらにそのまま伝えましたところ、この親思うところの娘の一念と、大悲の親の、「助け救わにゃあおかんぞ」のこの一念とが見事に一つになって、お婆さんの胸のどん底へと到り届きましてついに、しぶといところのお婆さんもやがて、御恩の称名、喜びながら、めでたく浄土往生を遂げられました。

No.63 当たり前のことにこそ

 世の中には、自分と年齢も生活環境も趣味も全く違った実に多様な人々がいます。私は東京に住み始めてから、新しい出会いがとても増えました。最近は特に年上の方に出会う機会が多いのですが、やはりそういう方々は、いろいろな面で手本となることが多く、私がまだまだ未熟なのだと気付かされる毎日であります。
 その知り合いの中に、とても旅行が好きで、特に海外旅行には週末を利用して頻繁に出かけているという方がいます。その方に海外の話をよく聞かせてもらうのですが、「海外に行くと自分がいかに幸せな生活を送っているのかということを思い知らされる。今の自分の生活に感謝しなくてはならない」と聞いた話が特に印象に残っています。
 私は、毎日本堂で報恩感謝のお念仏を称えているつもりでいましたが、この話を聞いた時、自分には感謝の気持ちが足りないのではないのかと、ふと疑問が浮かびました。なぜなら、話を聞いて始めに思い浮かんだ気持ちが、改めて感謝を感じる体験ということを自分は最近まったく経験していない、と羨んでしまったからです。何も特別な体験だけが感謝に繋がるわけではありません。毎日の何気ない生活、朝起きて、ご飯を食べて、仕事をして帰宅し、夜寝床に就くというような当たり前のことにこそ感謝しなければならないのです。どんな些細な出来事にも感謝の気持ちから南無阿弥陀仏と手が合わさる、ということが大事なのです。先の旅行の話を聞いた時にも南無阿弥陀仏とすぐに手を合わせることができたら良かったなと今になって思います。
 善導大師は、南無阿弥陀仏の「南無」というのは「帰命」ということであると説かれています。「帰命」とは、自己中心的な思いに立った生き方をしていた自分が、阿弥陀如来の本願を聞き、うなずかされ、真実なる生命の声にうながされて初めて、阿弥陀如来に全面的に頭が下がるということです。この帰命という言葉の意味をしっかりと心に留めて、どんな時でも感謝の気持ちを忘れず、「ありがとうございます」とお念仏を称える日々を送らせていただきたいものです。

No.62 煩悩に向き合う 不断煩悩得涅槃

 私たちは、この世に生を受けた時以来すべからず、一説には八万四千あるともいう煩悩の心を持っているものです。それは死ぬまでなくなりません。その煩悩に身も心も任せすぎると、自分自身を滅ぼしてしまうこともよくあり、それは今も昔も変わりません。
 宗祖親鸞聖人がお書きになられた正信偈の中に「不断煩悩得涅槃」という一文があります。煩悩を断たずして、涅槃の境地を得るということです。煩悩を断たずに涅槃を得ると聞くと、自分の好き勝手に欲のまま行動していても、涅槃の境地に至ると考えそうなものですが、そうではないのです。
 確かに阿弥陀如来は、煩悩にまみれた人間こそ、一人残らずお浄土に救い取りたいと願い誓われています。しかし煩悩にまみれた生活をしてもよいとは仰っていません。煩悩に身をまかせて生活をするということは、自分があれをしたい、これをしたいと自己中心的な生活となってしまい、他のことを考えなくなってしまいます。とても涅槃の境地に至る状態とは言えないでしょう。阿弥陀如来は知らず知らずのうちに煩悩まかせになっていることをしっかりと自覚して欲しいと願われているのです。私たちはその願いに気づき、煩悩と向き合っていかねばなりません。それが不断煩悩得涅槃につながっていくのではないでしょうか。
 仏様の尊前には花瓶・香炉・鶴亀(燭台)の三具足が備えられてます。お供えした花を仏様の方に向けずに私たちの方へ向けるのは、仏様からの回向を表しているからです。お香を焚くのは、良い香りが隅々まで行き渡るように、全ての人々に行き届く仏様の慈悲の姿を表しています。鶴亀の蝋燭は、仏様の知恵を表し、鶴は千年、亀は万年と言うように、長い時間、仏様の大いなる知恵で私たち人間を導いて下さることを表しているのです。いつでもどこでも私たちみんなのことを見守り、手を差し伸べているよとの阿弥陀如来の思いがそこに詰まっているのです。
 日々のお仏壇のお給仕も仏様の願いを味わいながら心を込めていたしましょう。

No.61 その人はその人であっていい

 今月二日、バンクーバー冬季五輪の選手団が帰国した。各競技とも盛り上がっていたが、特に冬の競技の花形といわれるフィギュアスケートは見応えがあった。氷上を優雅に舞う各選手の姿に、感動を覚えた方々も多いことだろう。
 よくメディアに取り上げられる事だが、フィギュアスケートの採点基準は素人目にはわかりづらい。芸術性を求められる競技なので、その基準はスピン、ジャンプ、ステップの出来栄えや難度だけでなく、他にもテーマ曲を正しく表現できているか、さらには選手の衣装までを評価対象としているのである。他の競技がタイムの差や得点といったように明確な判断基準があるのに対して、フィギュアスケートは優劣がつけにくい競技と言われる所以である。
 男子では四回転ジャンプを決めた選手が銀メダル、四回転を封印した選手が金メダルだった。両者とも確かにすばらしい演技であったが、これでは四回転という大技の醍醐味が無いようにも思える。失敗する恐れがある大技に果敢に挑む姿勢は評価されるべきではないだろうか。選手それぞれの良さが最大限に尊重される採点とはまた難しいものだと痛感した。
 『仏説阿弥陀経』には「地中蓮華 大如車輪 青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光微妙香潔」とある。「極楽浄土の池の中にある蓮華の花には様々な色があり、青い花は青色、黄色い花は黄色、赤い花は赤色、白い花は白い光を放っていて、それらは奥深く高潔なものだ」という意味である。青い花が黄色や赤色の光を出す必要はない。青い花は青いままでいい、人はそれぞれ顔も形も違うけれども、その人はその人であっていい。別の誰かになる必要はないのだ。
 「参加することに意味がある」とは五輪精神であるが、競技である以上、順位がつき優劣が決まる。メダルを取った選手もいれば、予選で敗退してしまった選手もいる。だが、どの選手にもそれぞれの輝きがある。五輪という晴れ舞台で力を尽くしてきた選手たちを笑顔で迎え、讃えたいものである。

No.60 心に罪深き鬼を飼っていないか

 先日のテレビ放送で、普通の人間では難しい海の中での緻密な作業において評価が高く、それまでにも世界各国で数々の潜水作業の仕事をしてきた潜水士のドキュメンタリーが流された。その中に、その潜水士が以前に橋を建築した場所へ潜る機会があった時に見た海底の姿は、橋を建築した当初の海藻が生い茂る海の姿ではなく、見渡す限り一面岩だらけという、まるで砂漠のような海の姿に変わっていたという話があった。
 これについて、その潜水士は、橋の建造によって影響を受けた海流が起こした海水温の変化、またそれにともない、その海流が運んでいた栄養となる物質も欠如した事などが原因として考えられると分析していた。そして、その事実を目の当たりにしたとき、一流の技術を持つ潜水士として今まで自分のしてきた行動が、地球規模でみて一流の自然破壊者でもあったということに気づかされ、自分の行動に初めて罪の意識が生まれたという。それからは海を再生するために、ボランティアとして様々な活動をし、失われ続ける自然と向かい合いあうようになったと話されていた。
 このように、人間にとっては良いことをしているつもりでも、自然にとっては大変迷惑なことをしている場合が、実は私たち一人一人にも例外なくあるものです。知らず知らずのうちのことなので、それと気づかず日々を過ごしてしまいがちですが、それに気づかされることによって、自分がそんなことをしていたなんて思いもよりませんでした、お恥ずかしい限りです、と自分の言動を改めることができます。
 自分が気づかないうちに行ってしまった悪いことには、悪いことをしたという意識がありません。ですから悔いることもありません。言い換えれば、後悔しなければ、人は悪いとも感じないとも言えるでしょう。自分が悪いと気づいていないことは大変恐ろしいことではないでしょうか。今月、豆まきがありますが、心に罪深き鬼を飼っていないか、今一度自らを振り返ってみてはいかがでしょう。

No.59 私たちを包む暖かい光

 年も改まり、また気持ちを新たに仏さまのみ前で襟を正してこれから一年を過ごさせて頂きたいと思います。寒くなった気候とも相まって、身が引き締まるとはこの事でしょう。
 寒さが厳しくなると、日なたと日陰では過ごしやすさが違います。暖かい日の光があるからこそ、日中はいくらか暖かいものです。もしこの光がなければ、毎日つねに暗くて寒い中、生きていかねばなりません。なんと過ごしにくいことでしょうか。太陽がなければ次に来る春もなく、もちろん昼夜もなく、毎日が真冬の夜中のような状態なのかもしれません。太陽の光の暖かみ、ありがたみを実感できる良い季節だと感じます。
 「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」と『観無量寿経』に説かれております。阿弥陀様の光はあらゆる方向の世界を照らしてくださっています。また十二の光にも例えられて、無碍光と讃えられる光はさまたげられる事がありません。すなわち、日陰がないのです。さらに炎王光と讃えられ、最高の輝きを持つ光。不断光とも讃えられ、絶えることなく常に照らしてくださる光でもあります。また超日月光とも讃えられ、日の光や月の光とは比べられない光です。私たちはなんとありがたい光を受けて一日を送らせていただいているのでしょうか。
 太陽の光は暖かくとてもありがたいものですが、それでも日陰が出来てしまいます。ですが、その日陰ですら照らしてくださるのが阿弥陀様の光なのです。深い悩みや迷いの闇の中という内面の日陰でただ身震いをするのではなく、すでに暖かい仏さまの光が私たちを包んでいるのです。その暖かさに私たちは気付かねばなりません。お念仏を称える私たちを迎え入れて、決して見放すことがない。それが阿弥陀様という仏さまなのです。
 ただ日々を寒い寒いと言って過ごすだけでなく、阿弥陀様の暖かい光のありがたさ。そのような光に出会わせていただいた、ご縁のありがたさ。寒い日々ではありますが、皆様心も体も暖かくしてお過ごしください。

No.58 本当の価値

 私たちはたくさんの人や物に支えられて生かされています。
 以前、私の家の近くのご住職が草刈をしていたところ、足を虫にかまれてひどくはれ上がり、動くのも困難になるということがありました。その方の、「足が動かないことが、どれだけ不便なのかということと、こういう怪我をしてみて初めて足が動くありがたさと、家族のありがたみを感じました」という言葉を聞いて、私は深く頷かせられました。今の世の中、物が溢れている状態が当たり前になっています。またスイッチ一つで結構なんでもできてしまうので手助けをあまり必要としません。何とはなしに生活していると気づかないものですが、このご住職のように当たり前だったものが当たり前でなくなったときに、はたと気づかせていただくのです。
 本願寺第八世・蓮如上人は、廊下を歩かれていた際、落ちていた紙切れを拾い上げ、「仏法領の物を、あだにするかや」と仰り、その紙切れを両手で押し戴かれたそうです。
 紙切れを頂くというのは、ただ物としての紙切れを拝むということではありません。その紙一枚を製造するに当たっても、自然の恵みや人の技術が必要であり、表面上だけでなく、それらも含めて紙切れ一枚の本当の価値となるのです。たかが紙切れ一枚ではない、仏様からの頂き物なのだ、何事も粗末にしてはいけない、と蓮如上人は説いて下さっているのです。
 人間というものは現状にはなかなか満足せず、さらに上へ上へと考えてしまうものです。この欲望には限りが無く、次から次へと物を手に入れようとします。先にも書きましたが、その手に入れた物は、そこにあるのが当たり前の物ではないのです。それらの背後にある本当の価値に目を向けた時に、それが有り難いものなのだと気づくことができるのです。
 皆さんも年末の大掃除の際には、ご家庭にある物一つひとつへ感謝の思いをこめて埃を払ってみてはいかがでしょう。
 きっと今まで以上に晴れやかな心で新年を迎えることができるのではないでしょうか。

No.57 ほんの一瞬

 街中の紅葉も深まり、カメラを片手に街中を散策に出かけた時のことでした。何気なくシャッターを切ったときピントがずれていたことに気付き、もう一度同じ場所を撮ろうとしましたが、そこには先ほどと同じものはありませんでした。同じ場所、同じ背景ですけれど、風になびく木々の揺れの違いや、街中を走る車や人達など、そこには同じものは存在していませんでした。
 最近は、日本のアニメーションが海外でも大変人気があり、日本の文化を代表するものの一つとして認知されてきています。ご承知の通り、このアニメーションというのは、セル画という静止画が元になっています。一枚一枚のセル画には人物や背景が描かれていますが、ちょっとずつ姿勢やものを動かしたようにしてあり、それが何枚も繋ぎ合わされて一つの動画アニメになっているのです。
 私たちの日常生活を動画として考えるならば、写真を撮るというのは生活の中から一枚の静止画を切り取る作業と言えるでしょう。ただその一枚はほんの一瞬です。その一瞬が過ぎれば、違う一枚になっていくのです。
 日本各地で色鮮やかな紅葉の季節が訪れていますが、やがて冬が訪れると枯れ落ちるのが自然の流れです。しかし、色づいた紅葉のように、いつまでも若く綺麗でありたいというのは誰しもが望んでいることかもしれませんが、この世に存在するものは一瞬一瞬の刹那に変化しているのであり、その刹那ごとに生じては滅し、滅しては生じて続いていくのが事実です。
 だからといってそのことに失望し、刹那的に生きなさいということではありません。むしろその一瞬一瞬を大切にして欲しい、二度と戻らないその瞬間の意味を深く考えて欲しいというのが仏様の願いです。一瞬が一時間になり、一日、一週間、一月、一年と積み重なって私たちの生活が営まれ、いのちが続いていくのです。一瞬一瞬を生かされていることに気付くこと、これはとても大切なことなのです。

No.56 十円玉の数とお念仏の数

 先日、お盆に実家へ帰省した際、古い友人から、一つの昔話を聞いた。それは、その友人が以前に会社の旅行で海外へ行ったときの話で、空港で家族が見送ってくれた際に、おばあちゃんが出発の前に意外なモノを手渡してくれたという。その意外なモノとは、両手いっぱいの十円玉だった。そして「何か困ったことがあったらいつでも電話しなさいよ」と、おばあちゃんから言われたそうだ。そこまで言って少し笑ったあと、友人は「やさしいおばあちゃんでしょ」と言った。
 それを聞いた私は、国際電話は高いから「十円玉ではいくら入れても足りないだろう」とか、「海外では十円玉を使うことのできる公衆電話はないだろう」などと多少ナナメから話しを聞いていた。
 しかし、"その十円玉の数に見合うほどおばあちゃんは孫を心配し、大事に想っているのだ"というふうに肯いてみると、忙しい毎日の生活の中でついつい忘れているさまざまな事に気づかされ、また、そのようなたくさんの思いやりや支えの上に私たちの人生が成り立っているのだと、自分を見つめ直すことのできる、よい機会となった。
 また、よく門徒の方から、お念仏は何回唱えたらいいですか?と聞かれることがあるが、"数に規定や、いつどこで合掌しなければいけないという指定はない"と答えると、不思議そうな顔をされる事がある。
 先に書いた十円玉の数とお念仏の数は、心配と喜びの数ともいえるのではないだろうか。何枚でも、親の心配と御恩の数だけ渡したくなるものであり、これをお念仏に置き換えると何回でも唱えずにはいれなくなくなるものといえるだろう。
 日常生活において、そのように考えることが自然とできた時、今、なんとなく唱えなければいけないと思い称えているお念仏が、阿弥陀仏の勧める南無阿弥陀仏という報恩感謝のお念仏に置き換わるのではないか、と思う。
 私もまた、たくさんの支えによって、今をいただいていることに改めて感動し、人生をお念仏と共に生かさせていただこうと思えてくる。

No.55 たかが夢?

 皆様は、夢をどのように考えるでしょうか。私は最近よく夢を見るのですが、目が覚めると、「夢を見た」ことは覚えていますが、その内容まで鮮明に覚えていることはあまりありません。
 世の中には、「夢は観念の作用であり、疲れた意識の乱舞であって、何の実在性も真実性もない幻だ」と言い切る人もいますが、夢の中でも現実の生活そのものであり、全く変わったところがないという経験をされた方もいるのではないでしょうか。
 しかし夢は、事実として厳然たる実在性をもって、夢の中の私たちを苦しめ、悩ませ、驚かせ、悲しませ、ややもすれば覚めた後の私たちの生活にまで、大きな影響を与えることがあります。
 例えば、ある日見た夢が正夢になった、逆夢になったということもあるでしょう。また今まで神社仏閣に参ったことがない人が、生々しい恐ろしい事故に遭った夢を見て飛び起きた朝などは、急に参拝したくなったということもあるかもしれません。夢には不可思議とも思える神秘性があるようにも思えますが、心理学などでもいまだ全容が解明されていないのが現実です。
 御開山親鸞聖人は、夢を多く見られた方であったとされています。そして、自らが見た夢を夢告であるとされました。なぜなら、聖人が何かに悩み苦しんでいるときに必ず夢を見たからです。比叡山の六角堂で救世観音よりこの夢告を得て、山を下り師匠の法然上人の門下に入った聖人は、山での仏道修行に限界を感じていられたのです。聖人の夢告には、救世観音や如意輪観音があらわれましたが、聖人はそれを仏様からのおはからいと受け取ったのでしょう。
 私たちが何気なく見ている夢ですが、その夢も全て、もしかしたら凡夫に向けての阿弥陀さまのおはからいかもしれません。この無意識から働きかけてくる夢を、たかが夢と終わらせるのではなく、必然的にご縁を頂いて見ているのだと頂くのも興味深いと思います。

No.54 後世へ伝えること

 近年若者の宗教離れが深刻であると言われ続けていますが、はたしてその原因はどこにあるのか、またそれは事実なのでしょうか。
 多くの人が情報源とするマスコミの影響は決して少なくなく、世間で騒がれた事件を起こした一部のカルト教団などによって、宗教にマイナスのイメージが植え付けられてしまったのが実際であり、若者の宗教離れを加速させる原因の一つともいえるかもしれません。
 しかし全てがそうというわけでもなく、例えば正月の初詣や盂蘭盆会でのお墓参り、寺院観光には多くの方々が参詣に訪れていますし、アクセサリーとしての腕輪念珠をする若者もたくさんいます。意識するしないは別にして、宗教に本当に無関心な訳ではないように見えます。
 以前ある寺院で、誰に言われたわけでもなく被っていた帽子を脱ぎしっかりと一礼や合掌をしたり、通りがかるお坊さんの挨拶に声を出して返していたりする若者の姿を多く見ました。逆に、挨拶を返さなかったり帽子を脱がないなど配慮に欠ける様子が、逆に年配の方に多く見受けられました。
 過去、現在、未来と時間の流れる中で命を頂いている私たち。先人の方々が良いお手本を示してこそ、輝ける未来社会へと進んでいけるのではないでしょうか。しかしながら、核家族化が進み、地域社会も崩壊している現代社会においては世代間で伝えられてきたことが、なかなか伝えられなくなっています。こうしたことも宗教離れの一因ともいえますが、だからこそ今、一人ひとりが自分を見つめ直し、自分が両親、祖父母から伝えられてきた真宗の作法、お念仏の有り難さを今一度思い出し、子や孫へはもちろんのこと、より多くの方々へ伝えていくことが何より重要な勤めであり、また自分たちのお念仏の実践へとも繋がっていくのです。
 南無阿弥陀仏と手を合わせ感謝のお念仏を称える、その姿をしっかりと後世へ伝えることは、仏様から託されたとても大切な自分の役割なのです。

No.53 子猫が一匹

 ある日のことでした。本願寺の倉庫から猫の鳴き声が聞こえてきたのです。倉庫の中を見てみると、子猫が一匹。しかし鳴き声は複数で、他にもいるようでした。親猫らしき姿は周囲に見あたりません。食べ物の無い倉庫で、親猫ともはぐれ、やせ細りながら、親猫を探す呼び声を発していたのです。
 何とかして助けてあげたいと思ってゆっくり近づいて、そっと手を伸ばすものの、親猫でないものが近づくとビックリするのか、子猫は逃げていきます。物の多い倉庫の中、小さい子猫たちが相手では鬼ごっこにもなりません。小さな隙間に入られては、私の手では届かないのです。何とかしてあげたいが、倉庫から出してあげるにはどうしたらいいだろうか、またその後子猫たちが安心して暮らす場所はあるだろうかなどと考えているうちに時間ばかりが過ぎていきました。
 結局、倉庫にいた都合三匹の子猫を無事に助けることができましたが、子猫と鬼ごっこをするうちに、ふと気づきました。仏さまからみれば、私はこの子猫と変わらない存在なのです。仏さまの私を救うために立てられた願い、そして私を救おうと伸ばしてくださっている手、それらを信じられずに逃げ回っていたのではと。ただ仏さまを信じて疑わず、その手にゆだねてしまえばよいのに、それができない私だったのです。
 生まれたばかりの赤ちゃんが母親をしたって頼りにし、やがて「ママ」と呼ぶようになるのは、母親が慈愛をこめて何度も何度も「ママですよ」と名乗り、呼び続けているからです。私の方から仏さまにお助け下さいとてを伸ばしているより前に、実は先に仏さまの方から、お前を救うぞと手を差し伸べて下さっているのです。
 浄土真宗の仏さまである阿弥陀さまは、私たちを救う手立てと、私たちのいずれ行き着く極楽浄土を、五劫という長い間考えられたのです。そしてさらに長い間修行なされて、私を今救おうとしてくださっているのです。子猫は、私にその事を教えてくれたのでした。

No.52「一期一会」

「一期一会」という言葉があります。これは、江戸時代の末期に幕府の大老と なった井伊直弼の言葉であり、著書である「茶湯一会集」という茶道の心得書の 中に出てきます。
 一般的にこの「一期一会」を、物や人との一つ一つの出会いを大切にするとい うニュアンスで使っている人が多いと思われますが、別に間違いではありません 。しかし、この言葉にはもっと奥深い意味があるのです。
 私たちの出会いには喜怒哀楽のいろいろな出会いがあると思います。その中で 、一期一会と思える出会いとはどんなものかと問われたら、強く記憶に残るよう な特別な出会いが思い浮かぶのではないでしょうか。ですが、それだけが大切な 出会いではなく、普段の私たちの生活を含めた全てが大切にすべき出会いなので す。私たちがほぼ毎日のように会っている人たちとの出会いもこの「一期一会」 に含まれているのです。
 この「一期一会」は始めに述べたように茶道の言葉です。茶道では、毎回同じ 主人がお茶を入れ、同じお客がそれをいただくということは珍しいことではあり ません。そういったくり返しの連続であっても「一期一会」なのです。なぜなら 、各人はもとより、一切のものが時間と空間によって変化しているからです。そ のため、茶道ではこの一回の茶会が一生で一度の出会いと説くのです。その事を お互いに心得ているからこそ主人と客人が万事に心を配り、誠意をもってお互い に最善を尽くすのであり、ここから「一期一会」という言葉が生まれてきたので す。ですから、私たちの日々の生活においても決して同じ出会いはなく、どれも が一生に一度の出会いなのです。
 私たちの命は「無常」の中に生かされているのです。生かされるためには多く の出会いがあってはじめて成立しているのだという事をしっかりと理解し、「一 期一会」を大切にしたいものです。

No.51 モノサシ

 昔、三河に篤信な妙好人の老夫婦が住んでいました。その夫はある晩、吹き荒れたすさまじい東風によって家の戸が立てるガタガタという音で目を覚まします。すると、当時、京都にあった御本山(本願寺)の伽藍が気になり、すかさず横に寝ていました奥さんを起こします。「この嵐では御本山さまが心配じゃ。今から嵐を止めに参ろう」と。
 そして老夫婦は話し合い、家にある出来るだけ大きな風呂敷を探し出して、凍える様な嵐の中、家の裏にある小高い丘に登ります。二人は風呂敷の四隅をしっかり持ち広げ、「なんまんだぶ、なんまんだぶ。これで少しでも風が弱くなれば有難いのぉ」「本当ですね。なんまんだぶ、なんまんだぶ」と冷たい風雨も忘れ、風が弱まるのを待ちました。結局、風が弱まり、老夫婦が家に帰れたのは夜も明けるころでした。
 この二人の行動はすぐに村の人々へ伝わりましたが、その村ではこの夫婦に対しての意見が大きく二つに分かれました。一方では、「風呂敷ごときで、あの大風が防げるはずがない。しかも御本山はここから五十里以上も離れた京都にあるのに、なんと馬鹿なことをしたんだろう」と非難する声です。もう一方では、「なんと、この夫婦は有難いのだろうか。私たちも見習わなければならん」と賞賛する声です。
 この老夫婦を非難する声はもっともな話でしょう。私たちも「そんなつまらない、役に立たないことをしても無駄じゃないか」とついつい思ってしまいます。それが人間のモノサシであり、現代の多くの人間がこの様なものの考えをしているのかもしれません。しかし、この老夫婦が行ったことは果たして非難されるべき事でしょうか?
この老夫婦が行ったことはたとえ愚かなことであったとしても、この老夫婦の心持ちは大変素晴らしいものであり、この老夫婦とそれを賞賛した人々の心は仏のモノサシといえるでしょう。
 この様な人々を素直に賞賛することが出来るでしょうか?知らず知らずのうちに自分だけのモノサシで物事をはかっていませんか?

No.50 明日ありと 思う心の あだ桜

 今年も桜の季節がやってきました。この季節を迎えると、我々浄土真宗の僧侶の心には一首の歌が浮かびます。

 明日ありと 思う心の あだ桜
      夜半に嵐の 吹かぬものかは

この歌は、わずか九才の少年が詠んだ歌と言われています。この少年は幼い頃に両親と死に別れ、叔父のもとで生活をしていましたが、世の無常を感じ、僧侶になることを決意しました。そして僧侶になる試験を受けにお寺まで行きましたが、着いたのは日もとっぷり暮れた夜でした。少年が「今からでも試験をして欲しいのですが」と尋ねると、試験官は「今日はもう時間も遅いし、明日に試験をしましょう」と答えました。
 それを聞いて少年は冒頭に紹介した歌を詠みました。いま綺麗に咲き誇っている満開の桜も、もし夜に嵐が吹き荒れれば、明日までには全て散ってしまうでしょう。同じように、人の命にも明日があるという保障はありません、と少年は歌にのせて自分の思いを告げたのです。すると試験官はハッと気付かされ、すぐに試験を始めたそうです。少年は見事に合格し、僧侶になりました。この少年こそが浄土真宗の宗祖、親鸞聖人です。
 このエピソードは今から約八百年前のことです。この頃と現代とは環境も全く違いますが、「明日もわからぬ人の命」というのは変わることのない事実です。医療が発達して治る病気も増えましたが、それでも病気で亡くなる方は絶えません。また、多くの方々の命を奪う凶悪な事件や悲惨な事故が、毎日どこかで起こっています。
 しかし、これらを人ごとだと思い、何をするにも「明日から」とか「明日でいいや」としてしまう人も多いのではないでしょうか。明日には、あなたが当事者になるかもしれないのです。咲き誇っている桜の花を見て「綺麗だな」で終わるのではなく、この歌を思い出し、今を大切に過ごすことが大事なのです。もう一度いいますが、明日を約束されている人などいないのです。

No.49 横載五悪趣

 「あ~した、天気に、なあ~れ~。」
懐かしいかけ声にふと振り返ると、空高く小さくも色鮮やかな靴が舞い上がっていた。
 そこにいた子供達は、小さな身体を躍動させながら、笑顔をいっぱいに振りまいていた。
 今私は、人生の岐路に立っていた。家庭や仕事、幾十もの想いを巡らせながら、どの選択が正解なのかを模索していた。考えても考えても出ない答えを・・。
 人が考える正解には、正しい答えは無い。この人にはこの人の、あの人にはあの人の答えがあり、それも人それぞれの主観であり、煩悩渦巻く本性が根底にはある。いつからか笑顔を忘れている自分がいた。そんな自分の心に、子供達のいっぱいの笑顔が太陽のように光輝き、昔持っていた純真な心が呼び覚まされていった。
 これはある私小説の下りである。
 親鸞聖人が述べておられる「横載五悪趣(おうぜごあくしゅ)」について、大無量寿経では、"横"という字は阿弥陀如来が衆生を必ず救うという願いを表し、"載"という字には切るという意味が、そして"五悪趣"は迷いの世界のことを指していると説かれています。これは、阿弥陀如来が一人も漏らさず迷いの世界の絆を横ざま(本願力)によって断ち切るとおっしゃっておられるということです。
 私たち衆生は、「幸せになりたい、健康でいたい」などいろいろな想いを巡らせ、努力したり願ったりしておりますが、それらは全て私たちの煩悩うずまく本性から生まれたものであります。浄土真宗の教えをいただくということは、このような煩悩や迷いの心を断ち切っていただく仏心を頼りとして信じるということですから、信じることは自分で思いたってするのではなく、阿弥陀如来よりいただいたものとなるのです。
 子供のような素直で純真な心を今一度思い起こし、仏さまへの報恩感謝の心をいつまでも持ち続けたいものです。

No.48「恩」

 「恩に着せる」「恩に着る」「恩を仇で返す」「恩を売る」など、世の中には「恩」を使う言葉がたくさんありますが、使われ方によって、いい意味だったり悪い意味だったりします。仏教では恩を非常に大切にしており、古来より、人は恩を知り(知恩)、心より感じ(感恩)、それに報いなければいけない(報恩)と説かれています。
 恩という字は「因」に「心」と書きます。恩を知ることや、恩を感じることは、私たちの「心に因る」のです。ですから、もし私たちが誰かに親切にされた時、素直な心を持っていれば、その恩に感謝して自然とそれに伴った行動がわき起こってくるものなのです。しかし、私たちはついつい疑いの心を持ち、その好意の裏には何か思惑があるのではないかと勘ぐってしまうことがあります。
 江戸時代中期の中根東里という学者が著した書物『東里新談』にこんな言葉があります。「施して報を願わず、受けて恩を忘れず」(人にモノを送ってお礼を期待するな、人からモノをもらったらすぐにお礼をしなさい)
 この、施して報を願うとは、自らの行為を誇り、それによって慢心することと言え、まさに「恩に着せる」事ではないでしょうか。また、受けて恩を忘れずとは、人からもらった恩を、恩と感じて、それに報いようとする行いであり、報恩感謝と言えます。
 仏事においても同じ事です。仏様から受けているご恩を、素直に感じて、それに報いようとする事が大切なのです。しかし、誰しもはじめは煩悩による疑いの心があるものです。ましてや仏様のご恩は目に見えないもので、科学万能の現代に育った私たちにはなかなか受け取りづらいものですが、それでも仏様がくださるご恩の深さを知り、心より感じることが出来れば、感謝するお念仏が自然と沸き起こってくるのです。
 さまざまな人の思惑が交差する世の中においても、私たちが素直な心でいれば、いろいろな人からたくさんの恩を受けている事に気づき、感謝の日々を送っていけるのではないでしょうか。

No.47 お正月

 お正月には、多くの方々が神社・仏閣へ初詣、初参りに行く様子がテレビなどで報道されます。
「今年も一年無事健康で過ごせますように、交通事故に遭いませんように、商売が繁盛しますように、望みの大学に合格しますように、もっとお金が貯まりますように...」
などなど、それぞれに願い事をされたことでしょうが、それらはどうしても自分中心の願い事やお祈り事が多くなってしまうものです。
しかし、どんな願い事にせよ、叶えばとても嬉しいことです。また難しい願いであればあるほど「自分一人の力ではない。神様仏様のお力によるものだ」と感謝の念も湧いてくることでしょう。
ですが、仏様の教えでは、願いが叶わなくても感謝を申し上げなければならないのです。
 仏様は、どうしてもみんなに本当の幸せを与えたいと強い願いをもって、常に私たちに目を向け、誰であってもどんなことがあっても区別することなく、平等に働きかけてくださっています。
ですから、願いが叶ったときでも、願いが叶わなくて生きる望みもないというようなときでも、仏様は常に私たちに目を向けて下っているのです。
親鸞さまは「逆縁」といって、自分に都合の悪い出来事に出会ったとしても、それがかえって大切なことに気づかせてくれることもあり、「仏様のお導きであった」と受け取らせていただいています。
 例えば、泥棒に入られて大切なものを盗まれたとしても、前述の教えからいくと喜び、感謝申し上げねばならない、となります。
自分には盗まれるだけのものが手元にあった、それだけの財産を持てるということは幸せなことだ、盗まれてみて初めて気づかせていただいた、ありがたい、ということです。
しかしながら、なかなかそのような心情にはなれないのが性です。普通は怒ってしまうでしょうね。
 日々の生活の中で、なかなか気づかせていただけないことに、目を向けて欲しいと願われているのが仏様です。
一年の計は元旦にあり。
自分にとって都合の良い願い事、お祈り事ばかりではなく、本来あるべき仏様との関わり方を、今年も一年目指していきたいものであります。

No.46「命を大切に」

 車を運転していると、ふとある標語が目に止まりました。
『命は大切に。交通ルールはしっかり守ろう』
 車を運転される方だったら、誰でも運転中にヒヤリとしたことやハッとした経験があるでしょう。車の重量は1tくらいあります。それが40km以上のスピードで走り、道路を行き交っていると考えると恐ろしいですね。車が多く普及している現在、その便利な車によって毎日多くの人の命が失われているのも事実です。命の大切さはみんなわかっていることですが、失われてから気づくのでは遅いのです。今、ここで、私たちが命の大切さを実感していかなければなりません。
 お釈迦さまは「人生は苦である」と仰いました。確かに世の中には思い通りにならないことは多く、現代社会では人々のストレスもたまる一方で、「たった一度の人生だから、自分の思い通りに生きなければ損だ」となるのもやむを得ないことです。人生において、自分の役に立つか立たないか、楽か辛いか、などの尺度は必要です。しかし「こんな風に生きれば損だ」「あんな風に生きれば得だ」と、自分の人生を損得で勘定してそれだけで良いのでしょうか。
 命に損得はありません。あるとすれば「尊く生きたか」「無駄に生きたか」ではないでしょうか。その基準から見れば、自分の利益になることばかりをし、楽をして生きた結果、ずいぶんと得をした人生だったとしても、自分の人生を無駄に生きたということも充分あり得ます。反対にどのような辛い日々を過ごしたとしても、尊く生きた、真実に生きたということもあり得るはずです。
 損したり、思い通りにならなかったことが無駄に生きたということではありません。お釈迦さまも「この世に無駄なものは何一つない」と仰っています。ましてや私たちの命は、多くの命の支えによって成り立っているのです。「自分だけが」という思いを超えていくところに、本当に意味で「命を大切に」していくことになるのではないでしょうか。

No.45 機事あれば、必ず機心あり

 ここ十数年の間に、私たちの生活はどんどん変化してきています。特に携帯電話やパソコンの普及によってワープロやEメールなどを使用する機会が増えた反面、自分で文字を書くという機会が減っています。そのせいでしょうか、いざ自分で何か漢字を書く必要があった時に、その漢字が出てこないことがあります。
 また現代では、都会になるほど地域社会のつながりは薄く「向こう三軒両隣」の顏や名前は知っているけれどもどんな人かわからないことも多いのではないでしょうか。そんな現代で、人気があるものにインターネットがあります。これは電子機器を使って利用するのですが、ボタン一つで商売や調べ物ができたりと大変便利なものです。さらに、それだけではなく新しい社会としても機能しており、たとえば遠くに住んでいて顏も名前も知らない人と知り合ったり、仲良くなったりすることも可能です。かたや顏や名前は知っていても交流が薄い、かたや顏や名前は知らなくても交流が深い、面白いですがどこか変ですね。こんなねじれが様々な事件や事故を起こしている原因の一つかもしれません。
 大谷光紹台下御遺著「弥陀をたのめ」の中で、台下は、中国の昔の書である「荘子」に出てくる「機械あれば、必ず機事あり、機事あれば、必ず機心あり」という言葉を引用されています。台下の御言葉によれば、「機事」というのは機械によって一つの仕事ができる、機械を使う仕事ができる、ことであり、「機心」というのは、機械を使って仕事をしていると、いつの間にか心まで機械のようになってしまう、ということだそうです。
 機械や道具を使って仕事をしているうちに、いつの間にか今度は心まで道具に使われてしまっている、そんなことを感じることはないでしょうか。自分の足下をしっかりと見据えて下さい。大きな落とし穴があいているかもしれませんよ。

No.44「聞く」

 私たちが、わからないことを質問して解決することを「聞く」といいますが、その聞の字が出てくることわざをいくつか探してみましょう。

 1. 下問を恥じず 知らずば人に問え
 2. 聞くは一時の恥聞かぬは一生の損
 3. 聞くは一時の恥聞かぬは末代の恥
 4. 聞くはその時の恥聞かざれば一生の恥
 5. 問うは当座の恥問わぬは末代の恥
 6. 負け惜しみは一生文盲

 と、ざっと上げただけでも六つもでてきます。  しかもこれらは全部、自身の疑問をそのままにせず、出来るだけ早く先達にうかがって解決する事の大切さを教えることわざです。
 このようにわからない事を質問して解決する事を「聞く」といいますが、大切な教えを享受することも「聞く」と表します。この二つの「聞く」は同じ字ですが同じ意味でしょうか。
 わたしたち浄土真宗の御開山聖人の説かれた有名なお言葉に「平生業生」(生きている平生に、往生の業事が完成する)があります。その言葉通りに、今生きているこの世界で往生を決定するには、何よりも阿弥陀様より賜る他力のご信心に気付かせていただかなければなりません。その手段が聞といえるのです。その理由の一つを、仏説阿弥陀経に垣間みることができます。
 阿弥陀経は、如是我聞に始まり、聞仏所説 歓喜信受 作禮而去と、聞に始まり聞に終わるなど、その重要さを説かれております。つまり、お経をふまえましても、阿弥陀様から賜る他力のご信心は「聞」つまり聞法が大切ということがみえてきます。  
 このように「聞」という字を味わいますと、平生業成を成すために一刻も早くご信心を決定させていだだく大切な手段を表した一文字としてわかってきます。
 わたしたちは、自問自答を繰り返しながらそのつど仏法にわが身を照らし合わせることによって私たちの無明の闇が浮かび上がってくるのです。
 手を合わせてお念仏を称えさせて頂ける仏恩のありがたさに感謝いたしましょう。

No.43 ありがとう

 「孝行したいときには親なし」と言いますが、最近、私は友人に「お前は親孝行しているか?」と聞かれました。その友人は、自分の親に「ありがとう」と言いたくても、恥ずかしさが先に立ち、なかなか言い出せなかったそうです。しかしある時、友人は母親がしていた食事の支度を手伝った際、それまでなかなか言えなかった「お母さん、いつもありがとうね」という言葉をやっとの思いで言ったのです。するとその言葉を聞いた友人の母は、何も言わずにしゃがみこんで号泣されたそうです。
 この話を聞いて、今まで親孝行をしてきたのか、一回でも親のために何かをしたのか、と自らを振り返ってみました。しかしよく考えてみると、今まで、私は親が子供のために何かをしてくれるのは「当たり前のことだ」と思っていたので、親のために何かをしたことがほとんど無いことに気づかされました。全く恥ずかしい限りです。
 そこで先日、私も両親に感謝に気持ちを伝えよう、まずはそれを親孝行の第一歩にしようとの決意を胸に実家に帰省しました。ですが、やはり友人同様になかなか言い出すことがむずかしく、日にちばかりがどんどん過ぎていきました。帰る前日の夜になって、ようやく母とゆっくりと話せる機会が出来ましたので、「お母さん、今までありがとうね」と言いました。母は「急に何を言っているの。子供が親を頼るのは当たり前のことなんだから、いいんだよ」と言ってくれましたが、感謝の思いを伝えることができて本当に良かったと思いました。
 子供の頃は素直にありがとうといえた記憶がありますが、大きくなるに従い、言えなくなっている自分がいます。また今度のことでそんな自分であるということに築かされました。今、伝えなければ、一生言えないかもしれません。私たちの一生は、一瞬一瞬の積み重ねです。一瞬のちの確証がないからこそ、今この一瞬を大切に、今しか出来ないという気持ちで物事にあたる事が大切でしょう。

No.42 避けがたいことを避けがたいと知る

 最近の報道を見ますと、嫌な事件のニュースばかりどんどん増えてきています。その中でも、多くなってきたのは、若者による無差別的な犯行です。無差別的、つまり、特に動機はないことが多く、強いてあげるなら人生の苦に対する反発と思えます。何とも身勝手で、自分にしか苦はないと思っているのでしょうか。
 釈尊は、「世の常の人々は避けがたいことにつき当たり、いたずらに苦しみ悩むのであるが、仏の教えを受けた人は避けがたいことを避けがたいと知るから、このような愚かな悩みを抱くことはない」と説かれました。
 人は誰でも老いや病気や死など、どうしても避けがたい事実にいずれ直面するでしょう。その時に、目の前の事実を「避けることの出来ない当たり前のこと」と受け入れることこそ、安らぎの道であると釋尊は説かれているのです。
 そもそも苦しみや悩みというのは、物事が自分の思い通りにならないところに生まれるものですから、自分の思い通りにならないのならば、その思いを変えれば良いのではないでしょうか。
 「人間万事塞翁が馬」という故事成語があります。
 『准南子(人間訓)によると、塞に住む翁の馬が逃げてしまったが、その馬が北方の駿馬を率いて戻ってきました。喜んで翁の息子がその馬に乗ったのですが、落馬をして足の骨を折ってしまいました。しかし、そのおかげで戦士にならず命長らえたそうです。』
 これは、世の吉凶・禍福(わざわいとしあわせ)は転変常なく何が幸で何が不幸か予測しがたいという喩えです。
 「禍福はあざなえる縄のごとし」ということわざもあります が、その幸も楽も、不幸も苦も基準があるわけではなく自分の思いが幸か不幸か決めるものです。
 苦しみから逃れるのが宗教ではなく、その苦しみに出会ったときに、物事を正しく見ていかに対応するかという「柔和忍辱」の心を養うのが仏教なのです。

No.41「見ざる・言わざる・聞かざる」

 昔からよく『口は災いのもと』と言いますね。自分の失言はもちろんのこと、相手に良かれと思った一言が、相手の気分を害したり、嫌な気持ちにさせてしまった、ということは、誰しも一度は経験したことがあるでしょう。
 皆さん鏡で自分の顔を見てください。言うまでもなく目は二つ耳も二つ、鼻も二つあるけれども、口は一つです。世界文化遺産である日光東照宮に「見ざる・言わざる・聞かざる」の有名な三猿の彫刻があります。「見ざる・聞かざる」が、二つある目や耳を両手で押さえるのはわかりますが、一つしかない口を押さえている「言わざる」も片手ではなく両手で押さえています。それぐらいしないと口というものは押さえられないのかもしれません。
 『十悪』という仏様の教えがあります。これは「殺生・偸盗・邪婬・妄語・両舌・悪口・綺語・貪欲・瞋恚・愚痴」の十個の悪業を指しますが、その中に、嘘をつくという意味の妄語、二枚舌を使うという意味の両舌、悪い言葉という意味の悪口、かざりことばという意味の綺語と、実に口に関することが四つもあるのです。どうやら人という生き物は少なからず噂話やお喋りが好きであり、ついつい「一を聞いて十を知る」ではなく「一を聞いて十を話す」くらいになってしまうようです。仏教では、聞くということをとても大切にしています。聞く耳をしっかりと持ち、二つを聞いて一つを喋るくらいの生活を心がけなさい、という仏様のお諭しではないでしょうか。
 人と人が心を通じ合わせるためには、会話がとても大事です。会話せずとも以心伝心といけば最高ですが、なかなかそうはいかないものです。最近では、電子メールなどによる文字での会話も多いようですが、話し言葉にせよ、文字にせよ、その一言、一文字が人と人とを繋ぐ大切なご縁を育んでいくものとなるのですから、日頃より和顔愛語(穏やかな顔で優しい言葉を話す)の気持ちで接していくことを心がけたいですね。

No.40 敬い、思いやり、感謝の心

 親鸞様は、歎異抄で「私は亡き父や母を供養するために念仏したことは一度もありません」と仰っております。これは亡き方々を敬わなくていいと仰っているのではありません。親鸞様は、いくら親のことを思って「どうか成仏できますように」とか「あの世で幸せに暮らせますように」と祈ったところで、自分にそんな力なんか無い、と気づかれたのです。もし、私たちにそんな力があれば、迷信に振り回されたりはしないのですが、力がないゆえに信じてしまうのです。それ故に、私たちは「生死の苦海」に溺れているような状態で、むしろ自分たちの足下の方が覚束ないはずなのです。まずはそれに気づかなくてはなりません。またそれに気づいて欲しいと仏様やそのお手伝いをしているご先祖様、親鸞様は願われているのです。
 しかし、その声は、なかなか私たちには届きにくいので、仏様やご先祖様は、残されたものたちに、何とか気付かせようと必死に働きかけているのです。お参りもその働きかけの一つなのですが、では「お参りに来たけど、何をすればいいの?」という方もいるでしょう。仏様の教えは、ご縁を大切にして、敬い、思いやり、感謝の心で生活させていただきましょうというものです。当たり前と言えば当たり前のことなのですが、迷信に惑わされ、大量の情報に溺れてしまっていると、なかなかできないことなのかもしれません。何かと忙しい毎日を送っている私たちですが、仏様の前に座り、手を合わせてお参りをすると心静かになるものです。その時には、ぜひ考えてみて下さい。ご縁を大切にしているだろうか。敬い、思いやり、感謝の心を忘れてないだろうか、と。そのように自らを振り返り、それ以降、充実した日々を過ごして欲しいのです。
 敬い、思いやり、感謝の心のある生活では、争いごとは起こりません。何かと暗い世情の現代を少しでも明るくしていきたいと仏様はいつでも見守っておいでなのです。

No.39「つつしむ」

 春になると街中のいたる所で新生活応援フェアの文字が躍り、新しい事を始める方も多いことでしょう。また次々と新商品が広告され、発売される季節でもありますので、購買意欲もかき立てられますね。
 ご承知の通り、私たちには「欲」がありますから、物が欲しくなってしまうのは仕方のないことです。しかし、それに心を奪われて自分を見失うと、周りが見えなくなって、人に迷惑をかけたり、知らないうちに誰かを傷つけたりしてしまいます。
 だからといって、欲が無くなればいい、という訳にもいきません。なぜなら三大欲をはじめとして、私たちの生活は欲の上に成り立っている部分が多いからです。もし無くなってしまったら、私たちの営みもできなくなってしまうかもしれません。ではどのように「欲」と向き合っていくのが良いのでしょうか。
 私の好きな言葉に「少欲知足」(大無量寿経)というものがあります。意味は「少しの欲で足りると知る」ということです。百獣の王ライオンは、お腹が満たされているときに、目の前をエサとなる草食動物が通っても襲いません。腹八分が体に良いと言いながら、お腹いっぱいに食べ、更に別腹だといってデザートを食べたりするのは、人間だけなのです。とどまるところを知らない欲に身をまかせるのではなく、「ほどほど」にすることが大事なことなのです、と仏さまは教えて下さっているのです。
 古来より日本には「つつしむ」という素晴らしい習慣があります。これを「慎む」と書いた場合は、いきすぎた行動をして身の破滅を招いたりしないように、自らを戒めるという意味になります。また「謹む」と書いた場合は、相手を尊重し、それに応じる気持ちがあるという意味になります。
 「欲」に心を奪われれば、道を踏み外しかねない私達の本質を見抜いた仏さまのありがたいお諭しが「少欲知足」です。「つつしみの心」を持って日常生活をおくるということは、仏さまの思いを受け止めて生活することといえるでしょう。

No.38 諸行無常

 今年も早いもので厳しかった寒さもやわらいで春のあたたかい風が吹き始め、本山境内の桜も咲き、春を感じさせる季節となりました。
 春、夏、秋、冬という四季は順序よくやってきますが、私たちの寿命、人生の終わりというのは、順序とは関係なく誰にでもやってくるものだ、というのは、みなご承知のことだと思います。 しかし私たちは、「死なんて、まだ先のことだ」と、いくつになってもさし迫ったこととは考えていないものですから、「死」は誰にとっても思いがけず、にわかに自分のところにやってくると感じるのです。
 「祇園精舎の鐘の音 諸行無常の響きあり」という詩がありますが、この世のあらゆる現象は変化して止まないという諸行無常は、三宝印という仏教の大切な教えの一つです。 古来より私たち日本人は諸行無常を日々の生活の中に感じ、心得ながら生きていました。色々なもののはかなさを感じる故に、それらの大切さを大事にしていたのです。 現代は科学が発達し、便利な世の中になっています。スイッチを押せば何でもできるような今では、一つ一つ物事の大切さは感じにくいでしょう。現代ではどこへでかけるにも早く目的地に着くことができます。旅行をするからといって、家族や友人と今生の別れを偲ぶ人はないでしょう。 かつて旅に出るといえば、まさに命がけのこと、今生でもう会えるかどうかわからないほどだったのです。色々なものが便利になった分、時間や物事一つ一つの大切さ、人との出会いのありがたさが薄れてしまっているようです。
 仏さまは「今まさにあなたの心は何を感じているの」と常に問いかけて下さっているのです。仏さまと向かい合うということは、自分自身の心と向かい合うということなのです。いつ自分に諸行無常の風が吹くかも知れないというときに、あなたは何を感じ、何をしようとしているのか、その一瞬一瞬が繋がって一時間となり、一日となり、一週間となり、私たちの人生になっていくのです。

No.37 私たちの姿が映る鏡

 苦しいこと、辛いこと、悲しいこと、嫌なことなどがなく、毎日が楽しく、楽に過ごしたいと思うことは誰にでもあることでしょう。
ですが、実際の生活ではなかなかそうはいかないということは誰もがわかっていることです。
 仕事でもプライベートでも、同僚・先輩後輩、家族、友人知人とぶつかり合って不平不満が出ることもしばしばですが、だからといって一人きりで生きてゆくことができるかというとどうでしょうか。
やはり周りにいる人々と支え合っているからこそ生きていくことができるのです。
 あるテレビ番組で、体の不自由なあるお子さんの人生が紹介されていました。
その子は普段、周りの人たちに助けてもらっているから、何か自分でできることで、他の人の役に立ちたいと考えていました。
そこで思いついたのが、養護施設での人形劇です。友達と一生懸命に練習して発表の日を迎え、見事な劇を披露して施設の方々に喜んでもらえました。その子も役に立てたと満足したようでした。
それからしばらくすると、その子の考えに変化が出てきました。役に立ちたいと頑張って何かをしたけれども、よく考えてみたら、自分が元気に生きているだけでも他の人の喜びになっているんだ、役に立っているんだと。生きていることのすばらしさに気づいたのでしょうね。
 いいことも悪いことも、喜びも苦しみも含めて、生きている、更に言えば生かされているということなのです。それが当たり前になってしまい、不平不満ばかりになっていてはそのすばらしさには、なかなか気づきません。
当たり前のことが、本当は当たり前のことではないのだよ、と教えて下さるのがみ仏さまの教えなのです。本当に今のままの自分でいいのかい、今一度振り返ってみたらどうだい、と私たちの姿が映る鏡を目の前に示して下さっているのが仏様です。その鏡に自分の姿を映してみて下さい。どんな姿が映っているでしょうか。本当の姿を知ることで、当たり前なことが当たり前ではなくなり、そのありがたさが感じられてきます。
仏様はいつでも私たちのそばにおいでになり、見守って下さっています。

No.36 帰るべき場所

 ある日、道端で土人形と、木の人形が口論をしていました。
 木の人形が「おい土人形、お前は一雨降ったら簡単に流れて無くなってしまうではないか? お前はなんと弱いのだ。俺は雨がどれだけ降ろうと大丈夫だ。しかし、お前は雨が降って無くなってしまうのではないかと心が安まるときがないだろう」と自信満々に土人形に言います。
 それに対して土人形は「俺はたしかに一雨降ると無くなってしまうもろい存在だ。しかし俺はどれだけ大雨が降っても、ただ故郷の土に帰るだけだ。しかしお前はどうだ。一度大雨が降って流されてしまったら何処にたどり着くかも分からないぞ。」と言いました。(司馬遷著「史記」より)
 木の人形は自分が丈夫であるということを頼りにしています。しかし、丈夫さを頼りにしている木の人形も、例えば火の中にくべられてしまいますと、あっという間に燃えて無くなります。逆に土の人形は火に燒かれると、焼き物となり、丈夫になります。しかし、土人形はこの様な反論はしなかったのです。ただ「俺には帰るべき場所がある」とだけ答えているのです。
 私達も木の人形のように、若さ、体の丈夫さ、名誉、財産など頼りとしているものが色々とあります。しかしこれらはいつかは失ってしまう、不確かなものです。私達はこの不確かなものを頼りに生きていることで苦しみ、更には、周りの人をも傷つけていることになかなか気づきません。
 土の人形は雨が降ってしまうと無くなってしまう、はかない存在ではありますが、帰るべき場所のあることのありがたさ、を教えてくれているのです。旅行に出かけて楽しく遊べるのも、帰ってきてホッとできる自分の家があるからではないですか。あてのない旅路は辛いものです。人生という旅路の、帰る場所はどこでしょう。仏様のお導きによって、いのちの帰る場所であるお浄土へ参らせていただくことが真の安心で、心の拠り所となる、それこそが一番大事なことであると親鸞聖人は説いて下さっておられます。

No.35「怨憎会苦」

 お釈迦さまが教えて下さった八苦の中に、「怨憎会苦」というのがあります。「怨憎会苦」とは、「怨み、憎しみ合うもの」が「会わなければならない」という「苦しみ」です。人生どこにいっても「会いたくない人」と会うものです。地域でも職場でも、顔を見るのもいやな人が、一人や二人はいるものです。そんな時はお釈迦さまの言われることは本当だなと思うのですが、みなさんはどうでしょう。
 しかし、よく考えてみますと、「怨み憎しみ合うものが会う」というのも本当ですが、「会ううちに憎しみ合うようになる」ということもあります。初めは、「いい人」だと思っていた人が、一緒にいる間に「いやな人」になるということが私たちには多いのではないでしょうか。嫁姑の関係も最初のうちは自慢の嫁であっても、しばらくすると「いい嫁ですが」となり、最後はお嫁さんの愚痴ばかりとなっていくこともあるように。何も嫁と姑に限ったことではなく、地域でも職場でもあることです。
 人間は悲しいことに、人やものの長所を見るよりも、短所の方が先に見えてしまうのです。そして短所が気になりだすと、そこから目が離れなくなり、長所を全く見なくなります。それで「会ううちに怨み憎しみ合うようになる」のです。そしてお互いに苦しめ苦しむのです。「漢書」に「短を捨て長を取る」という言葉があります。欠点や短所を知ることは大切ですが、それを気にし、そこを責めながら生きる人生は、他を損なうと同時に自分自身を損なう、自損損他の人生です。美点や長所を知って、そこを大切に伸ばすことが、素晴らしい人生を実現する秘訣でしょう。
 人間というのは他の人やものの短所を探しだして文句をいうだけでなく、自分の肉体の短所まで探して文句をいうのです。しかしこの肉体が、今、ここにあることの不思議に気づいたら、本当は文句なんか言えないのです。短所ばかり気にしてみている人は、生かされている「いのち」の不思議に気づいていない人なのかも知れません。

No.34 正しく聞く

 広く見聞して知識を蓄えることは、過去を知り未来を知るための備えとなります。人間は常に明日を見つめ、未来を見つめて生きる生きものです。明日を失い、未来を失ったら人間は生きられなくなります。それほど人間にとっては明日が、未来が大切なのです。それなのに、私たちは明日をよく考え、未来をよく見極めて生きているかというとそうではないようです。太陽が昇ってから、その日のことを考え、目の前のことにあわてるということが多いのではないでしょうか。あわてないためにもしっかりと見聞することが大事です。
 聞くということは、耳さえ不自由でなかったら、簡単なことのように思っていますが、私たちは、この耳で聞いているようで案外聞いていないのです。私たちは、耳に心地いい言葉や、自分に都合のいい話は聞いていますが、そうでないものは、全く聞いていないということがよくあります。これは見るということに関しても同じようで、私たちの目は自分の都合で、自分の都合のいいようにしかものを見ないようです。
 私たちは、きちっと聞いたようでも、間違って聞いたり、自分の都合のいいように聞いていることが多いのです。その証拠に、一つ話を聞いても、人によって聞いているところが違いますし、そして、その受け取りもまちまちです。ご法話を聞く時も同じで、蓮如上人は「蓮如上人御一代記聞書」で

「一句一言を聴聞するとも、ただ、得手に法をきくなり。ただ、よく聞き、心中のとおり、同行にあい談合すべきことなり」

と仰ってます。正しく聞くためには、聞いた者同士で、聞いた話を話し合うことです。話し合うことによって、偏った自分の聞き方が修正されます。
 また仏教を聞く上で一番大切なことは、どのようなお話でも他人事に聞かないことです。どれほど素晴らしいご法話を聞いても、他人事と聞くならば、それはただテレビのワイドショーで噂話を聞いただけと同じです。自分のことと聞いていく時、ご法話はそのまま自分の仏道となるのです。

No.33「眼施」

 多くの「いのち」に生かされて生きているのが私たちですから、自分の身体も、自分の持ちものも、全て、他の「いのち」によって与えられたものです。よってお釈迦さまは、自分の身体も持ちものも、みんなに施すことを仏道の第一に挙げられているのでしょう。でも分け与えるものを何にも持たない人は、どうしたらいいでしょうか。お釈迦さまは、無財の七施といって、他の人に分け与えるものが何にもない人でも、分け与えるもののあることを教えて下さいました。しかもそれは誰にでもできることであり、日常生活の中で行えることばかりなのです。
 その中の一つに「眼施」というのがあります。これは「やさしきまなざしであり、そこに居るすべての人の心が和やかになる」ものです。
 私たちは、主体性だとか、自主性ということをよく口にしますが、人生は、どのような「まなざし」の中で生きるかによって決まります。「冷たいまなざし」の中で生きると、私たちは知らないうちに冷たい心の人間になってしまいます。「意地の悪いまなざし」を意識し、負けるものか、跳ね返してやると頑張っていると、いつの間にか、頑張っている本人も意地の悪い人間になってしまいます。「眼施」である「やさしいまなざし」の中で生きて、初めて、やさしい心の人間になることができるのです。
 ですが世の中、「やさしいまなざし」ばかりではありません。どちらかというと「冷たいまなざし」「意地の悪いまなざし」の方が多いでしょう。だから「冷たいまなざし」「意地の悪いまなざし」の方が気になり、そちらに引っ張られて、自分もつい冷たく、意地悪いまなざしになってしまうのです。人は「まなざし」で人を殺しも、生かしもするのです。
 常に「やさしいまなざし」を見失わないように、「やさしいまなざし」の中で生きるように心がけて、「やさしいまなざし」の持ち主になれるのです。見失いそうになったら、仏さまの前に座るのです。仏さまの「やさしいまなざし」の前で、「やさしさ」を取り戻して下さい。

No.32「心の広さ」

 お釈迦さまは、言葉には耳に心地よいものと、そうでないものがあることを教え、耳に心地よい言葉を気持ちよく聞くだけでなく、その反対の言葉も「慈しみの思いを心にたくわえ怒りや憎しみの心をおこさないように」聞いて受け入れる人が「心に広い人」であると教えて下さってます。
 私たちはどうしても自分の耳に心地よい言葉だけを聞いて、そうでないものをシャットアウトして聞こうとしません。言葉だけでなく、自分と考えの近い人だけを集め、考えの違う人を排斥したりもします。どちらにしましても、自分の物差しを最優先させ、自分の物差しに合う人だけを集め、自分の物差しに合わない人を非難したり、中傷したり、排斥して、自分の世界を自分で狭めながら生きているようです。
 「心の広い、狭い」は、どれだけ自分と異質なものを持っている人を理解し受け入れることができるかによって、決まるのではないでしょうか。自分と異質なものを持った人を排斥し、同質のものだけが集まれば、話もよく合い、気持ちが良いかもしれませんが、視野をだんだん狭め、結局「井の中の蛙」になってしまいます。また、同質のものだけが集まっていると、物事が順調にいっているときは良いのですが、問題が起こったときに困ります。その時には、反対の意見も聞く、異質なものを持った人も大切にしていくという「心の広さ」があれば、良い方向が見出せるはずです。
 家庭においても、地域においても、職場においても同じ事がいえるでしょう。お互いが異なるものを持った人を尊重しながら、それぞれが持ち味を出し、お互いに補い合っていくことが大切です。頭ではわかっていても実践するのはなかなか難しいですが、そのためにはお互いに、異質なものを受け入れる「心の広さ」がなければなりません。人生は障害の多い道、それも曲がりくねった道を進むようなものです。人生はアクセル役だけではなく、しっかりしたブレーキ役がいないと、安心して進めないような道なのです。異なる役割を果たしてくれる異なったものを持つ人を大切にすることは、この人生を全うする上でも何よりも大切といえるでしょう。

No.31 相共に賢愚なること、鐶の端なきがごとし

 人間的に素晴らしい人に出会って、「私と人間のできが違う、私はダメなつまらない人間だ」と、劣等感にさいなまれたことがないでしょうか。また、素晴らしい仕事をした人に会って、「私には、あんなことはできない」と、やってみようとも思わず、はじめからあきらめたり、更には「私は粗末な人間」と居直ってみたり、ひどい場合は親や周りに責任を押しつけたりすることがないでしょうか。

 聖徳太子の「十七条憲法」の第十条には
忿を断ち、瞋を棄て、人の違うを怒らざれ。人みな心あり。心おのおの執れることあり。彼の是はすなわち我の非にして、我の是はすなわち彼の非なり。我必ずしも聖に非ず。彼必ずしも愚に非ず。共にこれ凡夫のみ。是非の理。たれかよく定むべき。相共に賢愚なること、鐶の端なきがごとし

とあります。どれほど素晴らしい人でも聖ではありません。どれほどつまらない私も、一から十まで愚ではありません。時には自分で驚くほど素晴らしいことを言ったり、したりします。しかし、それもたまたまであって私の全てではありません。一から十まで間違いのないという完璧な人間もいません。どれほど素晴らしい人間にも、一つや二つ問題はあるものです。反対に、一から十まで間違いという人間もいません。必ず素晴らしいところを持っているものです。
 「共にこれ凡夫」とは、どれほど素晴らしく見え、どれほど素晴らしいことをした人間も、その時の縁で何をしでかすかわからない危うい、人のことは見えていても自分の将来は何も見えない悲しい、自分中心の、存在ということです。いばることもいりませんが、卑下することもいりません。
 他の人と比べて勝った負けたでなく、私は私として、同じにはなれないがあの人のようになりたい。同じ事はできなくともあの人のやったようなことはやりたいと、他の人を良き手本とし、他の人の仕事を良き見本として、私は私として頂いた「いのち」を精いっぱい生きたいものです。

No.30「精進」

 私たちは、ややもすると毎日の生活を疎かにし、何か事があると、はりきったりするものです。しかし事あるときだけはりきっても、人は高く評価してくれません。やはり、人間は普段の行いが大切でしょう。人から信頼されるのも、また人から軽く見られるのも、みんな普段の行い次第です。
 「阿含経」に、「声聞は精進をもって力となる」という言葉があります。声聞とは、文字通り、仏様の声を聞く人ということであります。(後には違う意味づけがされますが)何を力にして生きているのかと言いますと「精進」を力にしていると教えて下さっています。「精進」の「精」は「不雑」、「進」は「不間」という意味ですから、すなわち、「精進」とは、あれもこれもでなく、これだけはと、間を空けずにコツコツと努力していくことなのです。
 ですから「常が大事」ということの実践が「精進」であるといっていいでしょう。コツコツと「常を大事」に続けていくところに、自ずから、信用もでき、信頼もされる人生になるのです。
 若い者は、お仏壇に手を合わすことがないと愚痴っている人に、「あなたはどうですか」と聞くと、「親の命日には欠かさず仏壇に手を合わせています」とのこと。「毎朝や毎晩はどうですか」と続けて聞くと、「何かと忙しいので」と答えられます。そこで「きっと若い方も、毎日忙しいのでしょう」と言うと「忙しいと言い訳をしてはいけませんね」と気づかれました。朝夕の勤めとしてお仏壇に参る自分の姿が、いつか若い人をお仏壇の前に座らせる力となるのです。常のあり方が、自分自身を育て、周りの人を育てていくのです。そしてその人生が、他の人を導き、他の人を大きく変えるような素晴らしい人生となるのです。
 「平生業成」という教えがあります。臨終を目前にして、あわてても、なかなかみ教えは聞けません。平生に聞いて、間違いなく「仏に成る」という大事業を成就しておきなさいという言葉です。み教えを聞く人は「常が大事」と今を生きる人になるということです。

No.29 泰山、大河、大海

 中国の歴史書「史記」には「泰山が大きな山になったのは、どのような小さな土塊でも、辞退することなく受け入れたからであり、大河も大海も、どのような小さな川の水も受け入れた故に、大きく深いものになったのです」とあります。これを人間に例えれば、大人物といわれる人は、どれほどつまらないと思われる意見でも、他の人の言葉に耳を傾け、受け入れて参考にすることによって、大人物になるということでしょう。
 人間の大きさ、深さはどれだけのものが受け入れられるのかという包容力によるのです。どれだけすばらしい才能に恵まれ、どれほどすばらしい考えを持っていても、包容力のない人は大人物になることはできませんし、また、その考えは通りません。
 人間は、自らに才能があると、それを振り回して、周りの相手かまわず切りまわり、結局自らの身を滅ぼすことになりやすいのです。「能ある鷹は爪を隠す」というのは、なかなかむずかしいことで、立派な爪があるとついつい使いたくなります。実力・才能のあるものほど、謙虚に人の意見をよく聞くことが大切です。
 また、すばらしい考え、正しい意見を言うときは、謙虚に述べるべきです。正しい意見にはみんな賛成するしかないのですから、正しいことは正しいと大きな声で高圧的な態度で言えば、反発され意見が通りません。
 自分の小さなものさし、自分流のゆがんだものさしで、他の人や他の意見を計って取捨選択すれば、受け入れる人や意見はわずかなものになってしまいます。自分のものさしを捨て、その人をそのままに、その意見をそのままに聞いていく、取捨選択は最後の最後、事に当たるときに考えればいいのです。はじめから、自分の思いで取捨選択するのでは、人も集まらない、他の人の意見も聞けないという悲しい結果に繋がっていくでしょう。何かを成そうとするとき、謙虚な態度で泰山や大河、大海の如くどっしりと構えることも時には大切なことです。

No.28「好きな道に辛労なし」

 好きなことをしているときは、時間の過ぎるのが早く、疲れも残りません。反対に、嫌々ものをしているときは、時計の針が止まっているのかのごとく時間が経ちませんし、やたらと心身共に疲れが残ります。
 同じ事をするにしても、それに取り組む私たちの心のあり方によって、辛労なしとなったり、苦痛になったりします。生きていくためには、嫌いなことにも取り組まなければならないこともしばしばあります。そんなとき嫌いなものでも好きになれば、同じ事をしても、辛労のない疲れの残らない、楽しい日暮らしになります。「好きな道に辛労なし」という言葉の通り、好きになることが、物事を遂げる上では大切なことの一つです。とはいえ、嫌いなものは嫌いという人もいるでしょう。
 ですが、私たちが嫌いといっているものは「食わず嫌い」なものが多いのではないでしょうか。誰にでも食わず嫌いの食べ物が一つくらいあるものです。食べたことがない物を食べるには勇気がいります。確かにいつも食べている物は味もなじんでいますし、何かにつけて安心です。しかし、それでは人生に広がりがありません。珍味といわれるものは一癖あって、なじみにくく、嫌いな方も多いでしょうが、何度か食べているうちに美味しくなり、病みつきになってしまうこともあります。
 ですから、物事が好きになる方法は、自分の経験を盾にした小さな枠から出て、それに慣れ親しむことが第一です。私たちの好き嫌いは、向こうに問題があるのでなく、こちらにも問題があるのです。「私はこれは嫌い、これはできない」と自分で自分を限定した上に、自分のものさしで他を量って、好き嫌いをいうのです。自分で自分を限定すること、また、全てのものに自分のものさしを当てることをやめて、ありのままにそのものを受け入れ、慣れ親しめば、嫌いなものはなくなり、みんな好きになります。みんな好きになれば、何をしても辛労なしという人生が実現するでしょう。

No.27「怨憎会苦」

 「四苦八苦」の中に「怨憎会苦」というのがあります。「怨憎会苦」とは、「怨み、憎しみ合うもの」が「会わなければならない」という「苦しみ」です。人生○○年もあると「会いたくない人」と会ったり、顔を見るのもいやになる人が、一人や二人はいたりするものです。またはじめは「いい人」だと思っていた人が、一緒にいる間に「いやな人」になるという「会ううちに怨み憎しみ合うようになる」ケースもしばしばあるようです。
 息子さんにお嫁さんを迎えた姑さんが、はじめはお嫁さんの自慢話ばかりしていたのが、しばらくすると自慢話が陰をひそめ「いい嫁ですが......」と不満げな口ぶりになり、しまいには口から出てくる言葉は、お嫁さんのグチばかり、という話はよく耳にします。
 だけど、これは嫁姑だけに限った話ではありません。私たちは悲しいことに、人やものの長所を見るよりも、短所の方が先に見えてしまうのです。そして短所が気になりだすと、そこから目が離れなくなり、長所を全く見なくなり、「会ううちに怨み憎しみ合うようになる」のです。
 欠点や短所を知ることは大切ですが、それを気にして、そこを責めながら生きる人生は、他を損なうと同時に自分自身を損なう人生です。また人間というのは他の人やものの短所を探し出して文句をいうだけでなく、自分の肉体の短所まで探して文句をいうのです。もう少し身長があれば、痩せていれば、この鼻が高かったら、目が切れ長だったらなどなど。しかし、この肉体が、今、ここにあることの不思議に気づいたら、本当は文句なんか言えないのです。ましてやその肉体は、文句をいわれても不平不満を言わずに、日夜私のために働いてくださっているのですから。短所ばかり気にしてみている人は、生かされている「いのち」の不思議に気づいていないのかもしれません。
 美点や長所を知ってそこを大切に伸ばすことが、素晴らしい人生を生きる秘訣の一つです。

No.26「大事の前の小事」

 「大事の前の小事」ということわざには反対の二つの意味があります。一つは、大事を行うには、小事を慎重にしないと、油断から思わぬ失敗をするという意味です。二つには、大事の前では小事にかまっていられないという意味です。一つの言葉に反対の意味があるのは面白いですね。でもどちらが本当で、どちらがウソということではなく、どちらも本当なのでしょうね。
 さて、私たちがこの人生をどう生きるかは、一人ひとりにとっての大事であります。ましてや、迷いの世界である此岸に「いのち」をいただいている私たちが、仏様のみ教えを聞き、さとりの世界である彼岸にお導きいただけることは、わが人生の大事であり、「いのち」の一大事です。

 お釈迦様はお聖教にて、

 道を修める者は、その一歩一歩を慎まなければならない。
 志がどんなに高くても、それは一歩一歩到達されなければならない。
 道は、その日その日の生活の中にあることを忘れてはならない。

と一歩一歩、一日一日の大切なことを教えて下さっています。一歩をおろそかにし、一日を無駄にすることが、仏道において恐ろしいことなのです。小事をおろそかにして、さとりの岸に至るという大事は達せられないのです。どんなに堅固な堤防でも、虫のあけた小さな穴や数センチのひび割れから崩れるのです。最新技術の詰まったシステムビルも、ちょっとした漏電やネズミが配線をかじっただけで、設備が動かなくなってしまいます。全く不可能と思われたさとりの岸にわたるという大事も、毎日の日暮らしの中で、み教えを聞き、実践することによって実現していくのです。
 ですが、つい忙しいから、疲れたからと言ってまた明日、また明日と、今日一日おろそかにしてしまいがちです。そんなことぐらいと大雑把にみ教えを聞く姿勢が、仏道の歩みをストップさせているのです。お釈迦さまのお言葉を真摯に受け止め、日々、精進に励ませて頂きたいものです。

No.25「心得たと思うは心得ぬなり」

 「親の心 子知らず」との言葉があります。人間は自分勝手なもので、自分の都合のいいときに「お父さん」「お母さん」と近づいて、用事を頼んだりします。
 しかし、自分にとって都合が悪くなると、近づくどころか父母にさえ背を向けて離れていきます。そんな背を向けて離れていく子のことを案じ続けてくれるのが父母なのです。
 親がものを言うと、言い終わる前に「言いたいことはよくわかっている」と反発したり、途中で立って最後まで聞かないようなことは、誰にでも記憶にあることでしょう。

 心得たと思うは心得ぬなり、心得ぬと思うは心得たるなり
               『蓮如上人御一代記聞書』

という言葉があります。子どもに反発されたり、聞いてもらえなかったりしても、嫌な顏をせずにまた言葉をかけてくれるのは親だけです。そんな時、子どもは「親の心ぐらいわかっている」と心得顔でいますが、本当は何もわかっていないのです。何がわかっていないのかというと、親の言う言葉はわかっているのですが、何度も何度も言わずにいられない親の心がわかっていなかったのです。
 親の心を本当に「心得た」ならば、ありがとうと頭が下がるはずです。しかし、ありがとうの言葉も、頭の下がることもなく「心得た」と言っているのは「心得ぬ」証拠です。何度言われても親の心が受け取れない、何と「心得ぬ」私であったかという方が、親の心を受け取れている、「心得たる」姿なのです。
 何かにつけて、あれも心得ていると思い上がる私たちですが、何事も、自分が当面して苦労すると始めてわかってきます。当然、父母の恩も、自分が子を養うことに当面してわかっていくことなのです。子ができて、初めて父母の恩を知ることができた、という話も聞いたことがあります。親は子を育てることによって、子に育てられているのです。子に教えられて親になり、親に養育してもらって子は成長します。互いに敬い、思いやり、感謝しあう、それが真の親子の姿でしょう。

No.24 み教えの本末・終始を聞く

 古代中国の書物『礼記』に「物に本末あり事に終始あり」とあります。どのような問題でも、本当に解決しようと思えば、その問題がなぜ起こったのか、始まりはどうであったのかを正しく把握しなくてはいけません。物事には、必ず本と末、始めと終わりがあり、それをしっかりと心得ることが大切です。物事の本末、終始が明らかになれば、どのように難しい問題でも解決したようなものです。
 実は、み教えを聞くことにおいても、「何故この教えは説かれたのか、誰のための教えであったのか」と、み教えの本末・終始を聞くことが大切なのです。
 それを親鸞聖人は、  しかるに『経』に「聞」と言ふは、衆生、仏願の 生起・本末を聞きて疑心有ることなし。これを 「聞」と曰ふなり。(教行信証 信巻) とお説き下さいました。「経」とは『大無量寿経』(大経)です。「聞」とは、大経の要「阿弥陀如来の本願」(仏願)を聞くことです。「衆生」とは、あらゆる世界(十方)の生きとし生けるものです。しかし、私一人がそこから抜けると、生きとし生けるもの全てになりません。衆生=私なのです。
 ですから、この私が、「阿弥陀如来の本願」は、誰のために、どうして起こされたのか(生起)ということと、そのためにどのようなことがなされ、その結果はどうなったのか(本末)を聞いて、疑いの心が無くなり、そのまま受け入れることが、み教えを聞いてゆくことなのです。
 親鸞聖人は『歎異鈔』にて「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえ に親鸞一人がためなりけり。」 と仰っています。
 しかし、私達は、私のためにみ教えが説かれ、本願が起こされていたとは受け取れないのです。聖教に悪人と出てきても、法話で地獄行きの人間だと言われても、他人事だと思い、なかなか私のためと自覚できるものではありません。ですが、「阿弥陀如来の本願」は、AさんもBさんもみな等しくさんも救いたいという誓いですが、まず「私」を救いたいという願なのです。

No.23「千里の行も一歩より始まる」

「今日一字を覚え、明日一字を覚え、久しければ則ち博学となる」
これは江戸時代の儒者・中井竹山の言葉です。また似たようなことわざで
「千里の行も一歩より始まる」や「ローマは一日にして成らず」があります。
  何事も一つ一つの積み重ねが大切です。私たちは結果だけ見て、私もあの人のようになりたい、私もあんなものを手に入れたい、どうしたら手っ取り早く、どうしたら楽にそれが実現できるかを考えますが、どのようなことでもまず一から始めるしかないのです。
  世には様々な記憶術のようなものがあったりしますが、仮にそれを使ったとしても、何かを覚えようと思って覚えることは大変です。
しかし繰り返しや積み重ねが記憶術にも勝るときもあります。例えば皆さんが毎日通る通学通勤などの道のりを思い浮かべてみてください。
まず花屋さんがあって、その先にコンビニ、角を曲がると電気屋さんという具合にすぐに思い出せるのではないでしょうか。同じ道を毎日通ると知らず知らずのうちに自然と覚えてしまうもの。更には、あの家の飼い犬はいつも居眠りしているなどという、覚える必要のないことまで覚えていたりしませんか。
  「千里の行も一歩より始まる」のことわざのもととなったのは、
「合抱の木も毫末より生じ、九層の台も塁土より起こり、千里の行も足下より始まる」
という老子の言葉です。一人では到底抱えることのできないような大木も、初めは、小さな枝葉から大きくなったのです。
また、天にとどく程の高い塔も、まず基礎の土盛りから始まったのです。
千里の遠方へ行く旅も、足下の一歩から始まるのです。同じように、着実に一歩ずつ進むことによって大事業をも成し遂げられるのです。
  仏教の大切な行の一つに「精進」がありますが、「精は雑に対する言葉、進は不間ということ」という意味です。あれもこれもではなく、一つでもいいから、間も開けずに進むことが、何よりも大切な姿勢なのです。

No.22「塵を払い垢を除く」

  釋尊の弟子・周利槃陀伽はもの覚えが悪いのが有名で、他の弟子の中には彼を軽んじている者もいました。ある時、周利槃陀伽は釋尊のもとを去ろうとしました。
「お釈迦さま、私のようなものは迷惑をかけるばかりで、さとりをひらくことなど到底考えられません。ここを出ようと思います」
「周利槃陀伽よ、本当にそう思っているのか」
「思うも思わないも、私のような愚か者は、この世にいません」
すると釋尊は他の弟子を集め、全員に
「もし愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち『賢者』である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、『愚者』だと言われる」と説かれました。
  のちに周利槃陀伽は、釋尊から教えられた「塵を払い垢を除く」という言葉の通り、精舎の掃除をしながら、ついには塵や垢とは次々に起こってくる自らの煩悩のことであったと、自分を軽んじていたお弟子たちもより早くさとりをひらいたのです。

  親鸞さまは御和讃にて
浄土真宗に帰すれども  真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて  清浄の心もさらになし

とうたっておられます。

  仏さまのみ教えを聞くまでは、自分には「真実の心」「真実の身」「清浄の心」もあると思っていました。しかしみ教えをたずねていくと、私には「真実の心」のない。わが身は「虚仮不実の身」である。他人を思いやるより、わが身かわいいの心ばかりで「清浄の心」を持ち合わせていない。み教えに照らされて、ようやく自分という人間がよくわかりました、と親鸞さまは告白されているのではないでしょうか。
  み教えを聞くということは、色々なことを覚えたり、知ったりすることでなく、自分自身に出会うことなのです。自分自身を知らない人は自分に「真実の心」があると思い、どこまでも自分を善しとし、他の人を悪しとして責めてしまいます。まず自分を知ることこそ、自分自身の幸せの道であり、他の人を幸せにする道なのです。

No.21 五百着の衣

  ある国の妃から、五百着の衣を供養されたとき、阿難尊者は快く受け入れました。王様は妃よりこれを聞いて、もしや阿難が貪りの心から受けたのではあるまいかと疑い、阿難を訪ねて聞きました。
「尊者は、五百着の衣を一度に受けてどうしますか?」阿難は答えました。
「大王よ、多くの比丘は破れた衣を着ているので、彼らにこの衣を分けてあげます。」
「それでは破れた衣はどうしますか?」
「破れた衣で敷布を作ります。」
「古い敷布は?」
「枕の袋に。」
「古い枕の袋は?」
「床の敷物にします。」
「古い敷物は?」
「足ふきを作ります。」
「古い足ふきはどうしますか?」
「雑巾にします。」
「古い雑巾は?」
「大王よ、わたしどもはその雑巾を細々に裂き、泥に合わせて、家を造るとき、壁の中に入れます。」
  仏さまの教えでは、自分の周りにあるものは一つとして「わがもの」ではない。全てはみな、ただご縁によって、自分の元にきたものであり、しばらく預かっているだけだと考えます。
  蓮如上人は、廊下を通られているとき、紙切れが落ちているのをご覧になって、「仏法領(如来からいただかれた物)の物を粗末にするのか」と仰って拾い上げ、それを両手で押しいただかれたということであります。紙切れ一つのようなものでも、大切にして粗末にしてはならない、活かして使っていかなければならないのです。
  また預かっているだけですから、手放す時がきたら執着せずに、見返りを期待せずに、喜んで手放さないとなりません。自分で汗水流して働いて稼いだお金や、そのお金を使って、手に入れた大切なものであったとしても、です。普段私たちが思っている常識のものさしでははかれないのが、仏さまのものさしなのです。
  ですから、自分の宝物が盗まれても喜びなさいとなります。それが手元にあったということは自分には富があって幸せだったということがわかり、その宝物によって盗んでいった人も幸せになれるかもしれない、となるからです。人のものを盗むのは良くないのは当然ですが、仮にそうなったときが来たら皆さんは喜べますか?

No.20「人間の命はどれくらいあると思うか」

 ある時、お釈迦さまが一人の僧に尋ねました。 「人年の命ははかないものだが、どれほど生きていることができるだろうか」 すると僧は答えました。 「数年の間ともいうべき短いのが私たちの命です」 お釈迦さまは 「お前は仏教がよくわかってないね」 と言われました。また二人目の僧に聞きました。 「人間はどれくらい生きられるものだろうか」 僧は答えます。 「ご飯を食べている間は確実に生きていることができるでしょう」 お釈迦さまはまた 「お前も仏教の心がつかめていない」 と言われました。そして三人目の僧に聞きました。 「人間の命はどれくらいあると思うか」 すると僧は答えました。 「確実に生きているといえるのは、息を吸って次に吐く瞬間だけです」 するとお釈迦さまは褒められました。 「その通り。お前は仏教の心をよく把握している」
 自分の命はあと数年、あと数十年は大丈夫と私たちは思っています。しかし、命は極めてはかないものです。いつ自分が事件事故、災害に遭遇するかもしれない、いつ不治の病に冒されるかもわからないというのが本当のところです。にもかかわらず、自分は大丈夫だと思い込み、今日しておかなければならないことを明日に、明後日に延ばしてしまいます。
 蓮如上人は『蓮如上人御一代記聞書』に  「今日の日はあるまじきと思えと仰せられ候う」 と言われ、何事も急いでやり、今日できることはその日の内に済まされました。
 確実に生きているといえるのは、今の一瞬だけです。ですから一瞬一瞬を大切に生きていく心構えが必要だと先達の方々は仰せになられているのです。「一瞬一瞬を大切に生きる」ということは「一瞬一瞬を有意義に生きる」ということです。そうすることで毎日毎日を心新たに、充実した気持ちで生きてゆくことができるのです。

No.19 捨つるも取るもいずれも御恩なり

 動物実験について書かれたある本に、化粧品を作るための実験として使われていたウサギの話が載っていました。
 それによると、ウサギは涙腺が発達していないので、異物を目に入れられても涙を流して洗い流すことができないのだそうです。また痛い目に遭わされても、泣き叫んだりしません。この特性を利用して、化粧品の原料をウサギの目に注入して実験を行います。目の粘膜が悪くなり、役にたたなくなったウサギは処分されます。その数は年間で何十万匹にもなるそうです。何気なく使っている化粧品の陰にある多大なる犠牲に驚きを禁じ得ません。
 また内に目を向けてみると、私たちの身体の中では、心臓や腎臓、肝臓などの臓器が四六時中働いて私たちのいのちを支えてくれています。健康なときには気づきにくいですが、私たちがまだ意識のない母の胎内にいるときから、いのちが終わるときまで、文句一ついわず、御礼も要求せず、黙々と動いてくれているのです。
 蓮如上人は「万事につきて、よきことを思ひつくるは御恩なり、悪しきことだに思ひ捨てたるは御恩なり。捨つるも取るもいずれも御恩なり」と仰せになられています。
 例に出したウサギをはじめ、生きていくために頂かねばならない多くのいのち、私たちの臓器などに支えられている私たちの生活を振り返ってみれば、何もかもが「御恩」「おかげさま」の中にあるのです。自分の力だけで何もかもできればいいですが、そうはいきません。ですから生きるということは迷惑をかけていくということなのです。迷惑をかけるということはつながりを持つということです。たくさんのいのちとつながりを持って生かされている私たちなのです。それを当たり前だと思ってしまえば、御恩を忘れ、感謝の心を失います。当たり前だと思っている生活を今一度見つめなおして、それまで見えてなかったかもしれない驚きを知ることが大切なのではないでしょうか。そこからおかげさまの感謝の心が生まれてくるのです。

No.18「さてその後は死ぬるばかりぞ」

「世の中は 食うて稼いで 寝て起きて さてその後は 死ぬるばかりぞ」
一休禅師

 仕事や用事に追われて「忙しい、忙しい」と思いながらの日々も多いことでしょう。「忙」のりっしんべんは「心」を表したもの、つまり「忙しい」というのは心を亡くした状態なのです。朝起きてご飯を食べ、仕事して寝るをただただ繰り返す毎日では、あまりに悲しい人生です。
 「雑阿含経」というお経にこんな話があります。 「広い海底に、目が不自由な一匹の亀がいて、百年に一回、海面に浮上する。大海には、真ん中に亀の頭が入るほどの穴が一つあいている流木が、一本流れている。百年に一回浮かび上がる亀の頭が、その穴に入ることがあるか?」 お釈迦さまが阿難尊者に問いました。 「そんなことは、ほとんど考えられません」 阿難尊者の答えにお釈迦さまは諭します。 「誰でも、そんなことは全くあり得ないと思うだろう。しかし、全くないとは言い切れないのだ。人間に生まれることは、今の例えよりも、更にあり得ない難いことなのだ。」
 地球ができて、生物が発生して、人間ができて、そして自分は両親から生まれました。何十億年よりもっと前からの、多くの縁が重なってここにいるのです。大げさな話のようですが、自分が今いのちをいただいているのは当然のことではなく、本当にありがたいこと、有ることが難しく滅多にないことなんです。
 いのちを粗末に扱うような事件や事故が毎日のように報道されています。ものの使い捨てが当たり前になり、ついには人のいのちも使い捨てられる時代になってしまったのでしょうか。いのちすらモノのように扱う、それでは敬いや思いやり、そして感謝の心も育たず、「死ぬるばかりぞ」のさみしい一生です。一休さんの歌の通りにならないように、まずは一人ひとりが考えていかねばなりません。

No.17 慈しみ

 牛久浄苑にて、墓参に向かうご家族と同行している時のこと。 私の後ろを歩いていた二十歳くらいのお嬢さんが、お母さんとこんな話をしていました。
「あの大仏様は怒った顔をしているのかな?」
 阿弥陀様が憤怒の形相と思われてはマズイので、ちょっと振り返り、
「あれはね、怒っているんじゃありませんよ。あれはね、ええ〜っと...」 とまで口に出して、「慈悲」という言葉を呑み込みました。現代っ子に「慈悲」といって果たして理解してもらえるのだろうかと。それで、「あれはね、慈しみのお優しい表情なんですよ」と言ったのです。
するとお嬢さんは、少々戸惑いながらも「はあ、そうなんですか」と言って、今度は私には聞こえないように言ったつもりでしょうけど、私には聞こえてしまいました。
「イツクシミってナニ?」
 いきなりで恐縮ですが、鯛の仲間に随分と変わった習性を持つ魚がいます。メスが数千個の卵を産むと、オスはそれを全部口の中に入れてしまうのです。卵から稚魚に孵化するまでは一週間程かかりますが、オスは口の中には大切な自分の子供が入っている訳ですから、餌を食べる事もできません。そうしてまさに命がけで新しい生命を育むわけです。では、無事に孵化した稚魚がお礼の一言も云うのかといえば、さっさと大海原へ泳ぎだしてしまいます。単なる本能・習性だと言ってしまえばそれまでですが、何の見返りも求めず尽くすこの親の姿、守ろうとする姿に慈しみの本質を感じます。
 阿弥陀如来は私たちに一体どんな見返りを求めていますかと問われれば、何もないと答えるよりほかありません。見方によっては一方的とさえ言える阿弥陀如来のお誓い、普段拝んだり感謝しない私を、ためらう事なく救わんとする如来のお働きを慈悲というのでありましょう。先例に挙げた魚が「ネンブツダイ」と名付けられているのは何かの偶然でしょうか。

No.16 赤色赤光白色白光

地中蓮華 大如車輪 青色青光 黄色黄光
赤色赤光 白色白光 微妙香潔

<訳>
 池の中には車輪のように大きな蓮の花があり、青い花は青い光を、黄色い花は黄色い光を、赤い花は赤い光を、白い花は白い光を放ち、いずれも美しく、その香りは気高く清らかである。
 これは『仏説阿弥陀経』の一節です。
蓮の花は清らかな水では育たず、泥の田で育ちます。泥の田というのは苦しみや煩悩を表しています。蓮の花はその泥が汚いからといって逃げ出したりはしません。その苦しみや煩悩を養分として育ち、煩悩の汚れの無い美しい花を咲かせます。これは、命が終った後の話ではなく、今生きている現実から逃げることなく、ここを自分が育つための場所と捉えて生き抜くための教えだろうと思います。

さいた さいた チューリップの花が
ならんだ ならんだ あか しろ きいろ
どの花みても きれいだな

 という有名な唱歌があります。歌詞が前出の阿弥陀経の一節に似ていますね。
私たちは果たして、赤・白・黄色と花が並んでいる、それを見てどの花見てもきれいだなと感動を持って言えるでしょうか。
「どの花が一番きれいだろう」と比較していないでしょうか。「どの花みてもきれいだな」と言えるのは仏の目だろうと思うのです。ここで説かれる花は、実は人間を譬えています。生まれた場所や、皮膚の色、職業や、顔の形などで差別する心を持っていて、どの花みてもきれいだなという心が起こらない。それぞれの色が輝いていることを見抜けないところに地獄というものがあるのです。そこを見抜くための目、いままで掛けていた色眼鏡を外すということを、仏法聴聞を日々重ねていく中で気づかせていただきたいものです。

No.15 不平不満

 暑い夏の日、とある大学のバスケットボール部の練習風景です。
 体育館ではバタバタバタ、キュッキュッ、走る音、止まる音、人の声、さまざまな音が聞こえてきますが、肝心のボールの音はしません。
「早くボール使った練習したいよな。走るの、もう飽きたよ」
「これじゃまるで陸上部だな」
休憩時間となり、部員たちはタオルで汗をぬぐいながら口々に不満を言います。
練習が再開され、ようやく監督からボールを使う指示が出ました。するとどうでしょう、先ほどまで文句を言っていた部員たち、なんとも楽しそうにコート中を走り回っています。ボール一つ手にすることによってとても生き生きとしているのです。
しかし明日にはまた同じ不満を言い、ボールを与えられたら嬉々として練習に励むわけですが、こうして徐々に上達するのでしょうね。急激に上達するような「魔法の練習方法」でもあれば便利なのですが、現実的にはこうやって反復練習する事が向上への近道のようです。
 私たち仏教のみ教えを聞くものにとっても同じことではないでしょうか。 法話を聞いたり本を読んだりして、一時的に心が安らいだという経験をされた方も多いでしょう。しかし残念な事に、せっかく安らいだ気持ちも長くは続きません。
地域、会社、学校などの人間関係その他日常の生活に埋没し、つい、不平不満をこぼしてしまいます。
 よく浄土真宗は「何もしなくていい教え」と思われがちです。確かに私のはからい(自力)によって浄土往生するわけでは決してなく、全ては阿弥陀さまによって往生が定まるのですから、そういった意味では「何もできる事はない」かも知れません。しかし、こうして生かされているあいだに何もしなくて良いという事にはならないのです。たとえ明日にはまた不満を言ってしまうかも知れないけれど、少しの時間でも割いて仏法を聞く、お念仏を称えるといった習慣を身に付けてゆきたいものです。

No.14 厳しい「慈悲」

 七高僧のお一人、源信僧都と弟子たちが住む草庵近くに鹿が迷い込んできました。すると僧都は、その度に飛んでいって力任せに鹿を殴るので、鹿は悲鳴を上げて逃げていきます。
 何度も繰り返されるその様子に弟子たちは、
「鹿はそんなに悪いことをする動物でもないし、何も殴らなくても......」 と僧都をなじる者さえ出てきましたが、僧都は、
「これが慈悲というものではないか? 私も鹿が憎い訳ではなく、命の限り生きて欲しいと思っている。この山に私とお前たちだけしかいないなら、三度の飯を二度にしても鹿に与えてやりたいが、山裾には至る所に罠が仕掛けられ、猟師も沢山いる。わたしが可愛がったらどういうことになるか? 猟師にまですり寄っていくことになるまいか? だから、人間は恐ろしいものだから近づくなと教えてやるのだ」と話をしました。
 僧都の胸のうちを聞いた弟子たちは、鹿を殴り続ける師の姿に、厳しい「慈悲」の姿を学んだのです。同情と慈悲は似ていますが、実は異質なものです。同情は、思いやりの心の動く有様で常に温かいものです。ですから美しいように思いがちです。しかし、よく考えてみると同情され続けた挙げ句にダメになってしまうこともあるでしょう。同情する側の心に優越感が潜んでいることもあり、必ずしも良い結果をもたらすとは限りません。
対して慈悲は、いつも温かいものとは限りません。時には僧都のように、はた目には非常に厳しく、冷たいものだったりします。ですが、それは本当に相手の身になって考えるからこそ出来る行為なのです。
 子供を叱らない、または叱れない大人が増えたと世間では言われます。何をしても無関心あるいは無関心を装うような大人ばかりに囲まれた彼らの目に、私たちはどのように映っているのでしょう。他人事ではないはずです。

No.13「モノとお前自身のどちらが大切か?」

 昔々、ある裕福な家庭の若者が大きな宴に参加しました。
着飾った若者は歌っては飲み、飲んでは踊り、しまいには疲れ果て、仲良くなった美女と庭先の木陰で寝てしまいました。
目覚めると、隣で寝ていたはずの美女がいません。しかも、いつも首に掛けていた大切な首飾りが見当たらないのです。若者はあの女が盗んだに違いない、と慌てふためきます。
「若い女を見なかったか?」と尋ね回っているうちにお坊さんに出会います。
「大事な首飾りを盗まれました。あれは私にとって一番大切なモノです。それを盗んだ女です」
お坊さんはそれには答えず、逆に問いかけました。
「モノとお前自身のどちらが大切なのか?」
 あれを無くしたら生きていけない。これこそ私の命だと思い込んでいるモノ。例えば財産や名誉、地位をはじめ、目に見えるモノや見えないモノなど様々ですが、それらは私たちの欲や煩悩、つまり執着心が姿を変えて現れているに過ぎません。
自分にとって大事なものには違いありませんが、「私そのもの」ではないのです。
 考えれば野生動物はごく僅かの例外を除けば、貯えたり収集したりする事はありません。人だけが競って財を成そうとした結果が現代社会と言えましょう。しかしせっかくため込んだ財産も生活のための道具に過ぎないのであり、それを所有する人が逆に支配されるようでは、人生とは誠に味気ないものではないですか。
 裕福な若者から盗んだ女は、その首飾りを売って、自分が住む貧しい村の人々に食べ物を施しました。しかし、同情してその罪を許せば、困っていれば人からモノを盗んでもいいのだという誤った考えを持ってしまうかも知れません。盗みは許されない罪であるとお釈迦さまも説いておられます。
大事なことはモノそのものに罪があるのではなく、それを所有したり取り扱う人間の心の有り様ではないでしょうか。あるから幸せ、ないから不幸という考え方、こんな有るか無いかの世界ではない、束縛されない自由な生き方を仏法は教えてくれるのです。

No.12 子煩悩

 その家では、農閑期になると、一家の大黒柱である父は大阪へ出稼ぎに行きます。
妻との間には就学前の小さな男の子が一人おりますが、胸を患い、時に激しく咳き込むのでした。この事は、子煩悩の父にとって大きな悩み苦しみでありましたが、妻にくれぐれも我が子のことを頼み、遠く離れた地で働く父でした。
 お正月、束の間の里帰りをした父。久々の我が家、そして可愛い我が子を膝に抱き上機嫌でお酒をいただきます。こうしていると厳しい出稼ぎ現場の疲れが融けてゆくようです。
 酔いも手伝ってか、ウトウトまどろんでいたこの父を目覚めさせたのは、息子の激しい発作でした。久しぶりに息子の病の重大さを目の当たりにして、ただただ狼狽えるばかり。
「はて、妻はどこにいる? 息子がこれほど苦しんでいるというのに、何故気が付かない?」 と周囲を見回すと、妻は炬燵の向こうで突っ伏したまま眠っていたのでした。
その姿に憤った父、思わず声を荒げて、
「おい、お前! この子を何とかせんか!」
妻はあまりの大声に慌てて顔を上げると、何事が起きているのかをすぐに察知し、子供に薬を与え介抱したのでした。
 息子もようやく落ち着きを取り戻し、ほっと胸をなで下ろした父でしたが、妻の憔悴しきった姿を見て愕然としました。
「ああ、私は子煩悩だ、などといいながら、本当に愛していたのは息子ではなく、子煩悩を演じる自分であった。妻は日々、このような息子の発作と対峙しながら家を守り、私を温かく迎えてくれたのに、情けなくも私はその妻を罵ってしまった。そんな自分は息子の看病すら出来ないではないか」
そして涙を流して、すまなかった、申し訳なかったと妻に手をついたのでした。
「あなたのお陰でこの子も私も暮らせるのです。有り難いことです、」と妻は申したそうです。 この夫婦はともに、お寺参りを欠かさない、お念仏の家で育ったそうです。

No.11「蜘蛛の糸」

 芥川龍之介作『蜘蛛の糸』という有名な物語があります。
 カンダタという極悪人がその死後、当然のように地獄に堕ちてしまいますが、ある日、一本の細い銀色の糸が自分の目の前に降りてくるではありませんか。 お釈迦様が彼が生前、蜘蛛の命を救ったことを覚えておられ、救いの手を差し伸べられたのです。 急いで蜘蛛の糸をたぐり登ったカンダタ、途中地獄の方を眺めると、おびただしい罪人どもがこの細い糸にぶら下がっており、今にも糸が切れそうです。 思わず叫びました。 「この蜘蛛の糸は俺だけのものだ。お前たちは 来るんじゃない」 その瞬間、カンダタのぶら下がっているところからぷつりと糸が切れてしまい、地獄へ真っ逆さまに堕ちていったのでした。
 私が子供の頃、学校の授業の中で先生からは「カンダタはやはり悪者。だから、自分だけ助かろうとして、その報いで再び地獄に戻されたのです。皆さんは日頃からはしっかりと良い事に励み、皆と仲良くいたしましょう」といった感じでお話しされた事を思い出します。
 それから数年後、今度はお寺で再び、この『蜘蛛の糸』を聞きました。布教使のお話はいきなり、「誠にカンダタはかわいそうなお人じゃ...」で始まるのです。道徳の時間ではカンダタのような悪者はこうなる、という具合に悪者の代表のように非難されたのに。
 「ここに参詣をしておる者一人ひとりが、もしカンダタの様な境遇であったならば、『おりろ!』とは叫ばんかの?親鸞様はご自身みずからを『心は蛇蠍の如くなり』と申された。カンダタは紛れもない、この私たちの心の有り様を表しておる」と。
 この布教使のお話は、「少なくとも自分はカンダタの様な非道い悪人ではない」などと思い上がっていた私に、実は彼こそが自分自身の本当の姿であると気付かせて下さったのです。

No.10 パソコン

 小学生が当たり前のようにパソコンを操る時代、なんでも「検索」すれば様々な情報が手に入ります。また、ある話題についてパソコンを通じて語り合うことが出来る「掲示板」や「チャット」なども大流行。
インターネットは文字通り、今や世界中に網羅され、その特性をフルに活用すれば大変便利なものです。
例えば主婦の方が「今晩のおかずは何にしよう?」などと悩んだなら、パソコンの前に座りキーワードとなる「おかず・今晩」を画面に入力すれば、なんと数十万件の関連ページが瞬時に表示されるのです。多すぎてむしろ悩みそうですね。
 そんな便利なパソコンですが、最近は犯罪に利用されたり、思わぬトラブルに巻き込まれたりするケースが増えてきています。成人向けの「チャット」でも、パソコン画面の中では、発言者が本当に成人なのかどうか確認できません。またある掲示板が、暴力的な発言や特定の人を名指しで中傷するなどといった行為がエスカレートし、ついに閉鎖されるという事態も今や珍しいことではありません。
大切なことは問題の原因がパソコンやネットにあるのではなく、実はそれを使う私たちにあるということです。特に「掲示板」や「チャット」では相手からはこちらが見えないという安心からか、何を言ってもいい、相手が傷つこうが構いはしないという意識が持たれがちです。逆に今までチャットの中で友人だと思っていた人から嫌なことを言われたとたんに、相手を非難し始める。所詮は苦楽を共にした訳ではない、仮想空間における友情などその程度のものかもしれません。
 今後もどんどんパソコンは身近になりますが、しかし私たちが生身の人間である以上、社会から孤立しては生きていけません。画面の中のバーチャル(仮想)空間では、今晩のおかずは決められても、明日ありと思う心の問題はどうにもならないのではないのでしょうか。
 このコーナーも本山ホームページに掲載されていますが、どうかそこを入り口として、お寺の門をくぐって頂くことを切に願うばかりです。

No.09「いただきます」

 言葉はコミュニケーションの方法として生活に不可欠なものですが、最近、テレビや雑誌などでしばしば日本語の乱れが話題になります。
 以前読んだある本に、こんな事が書かれてありました。それは、イギリスの旧家へ嫁がれた方が書いたものです。...ある日、彼女のお宅へ日本から友人が訪れました。ちょうどお昼時でしたので、
「お食事は?」と尋ねたところ、
「来る途中レストランでいただいて参りました」と友人は答えたのですが、この「いただく」という言葉に、この本の筆者は違和感を憶えたといわれるのです。彼女によれば、
「誰かにご馳走になったのでもなく、自分で食事代も払ったのに『いただく』というのはおかしくありませんか?」ということです。
 確かに、お食事を作って下さった方、ご馳走になった方にも「いただく」という言葉を使います。しかし、いただくという言葉は、たった、それだけのものでしょうか。言葉の表面にばかり執らわれて、自分の都合良く言葉を受取ってばかりいると、大切な事を見失いがちになるでしょう。  みなさんの今日の晩ご飯はなんですか? 魚・牛・豚・鶏はもちろんのこと、野菜もお米も、お茶の一杯まですべて、ついさっきまで生きていた「いのち」を私たちは食材として食べています。
私たちが「いただきます」と手を合わせて言うのは、そのいのちの恵みに対して心から申しあげる言葉なのです。
 仏さまがいらっしゃる極楽浄土は、「言葉の要らない世界」と説かれます。一方、言葉一つ間違えれば、大きな問題が起こるのが私たちの住む娑婆世界です。
 普段何気なく使っている言葉だけに、その大切さが分からなくなっていないでしょうか。私たちは一人では生きていけません。互いに支え合うためにも、言葉を通して心まで通じ合う真のコミュニケーションが必要です。
「いただく」に限らず、聞こえてくる言葉が真に伝えようとするこころに耳を傾けなくては、とあらためて考えさせられました。

No.08 三つの髷 (もとどり)

 法然上人のもとで大勢が聴聞に励んでいた頃、お弟子の一人が故郷に帰りたいと申し出ました。すると上人は、
「おや、髷も切らずに帰るのかね?」 と仰ったので、このお弟子は、
「はて、出家した私のどこに髷が? 上人のおっしゃる意味が私には分かりません」 と尋ねました。そこで上人は、
「お前さんは故郷へ帰って、ここで学んだ知識で人々を驚かそう、そして有名になろうと考えてはいませんか? またそれを利用して生活の糧を得ようなどとは思っていませんか?」 と答えられたのです。さらに続けて、
「知識をもって人を驚かそうとする我慢勝他の心、それによって有名になろうとする名聞の心、そして経済的にも恵まれようとする利養の心の三つの髷が私には見えるのです」
 すっかり自分の心を見透かされてしまったこのお弟子、直ちに自ら書きためた書物を焼き捨て、裸一貫で帰ったと伝えられます。
 せっかく勉強したのに何てもったいない、と考える読者も多いのではないでしょうか。中には法然上人って、ちょっとイジワルな人だと感じる方もいるかも知れませんね。
 でもこのお弟子に限らず、私たちがもし、「世間のほとんどの人が知らない知識」を手に入れたとしたら、「優越感」を持つことはないでしょうか。かといって、仏法を聴聞することを全く止めてしまったのでは意味がありません。
 聴聞は大切、だけど自分自身が偉くなったなんて考えたら大間違い、考えれば当たり前のことです。だって、仏法とは全て仏さまが私たちを導くためにご用意下さったものであり、それを聞いて知ったからといって、自分が偉くなるわけでもなんでもないのですから。
 そこで蓮如さまのお言葉をひとつ。
「王法(世俗の法律)をもってさきとし、内心にはふかく本願他力の信心を本とすべき」
 自慢げにひけらかすなんてもってのほか、との上人の仰せ。耳が痛くなるお言葉です。

No.07「親死ぬ子死ぬ孫死ぬ」

 一休禅師のお話として伝えられている有名な物語です。
 むかし裕福な商人が、孫が生まれたお祝いに、何かめでたいことばを書いて欲しい、家宝にするから、と一休さんに頼みました。
「喜んで書きましょう」と気軽に引き受けた一休さん、さらさらと書いた言葉はなんと、『親死ぬ 子死ぬ 孫死ぬ』。
それを見た商人、顔を真っ赤にして怒ります。
「私は、めでたい言葉と言ってお願いしたのに、死ぬ死ぬ死ぬとは何事ですか」
そこで一休禅師、慌てず騒がずさらりと、
「なるほど、ではなにか、お前のところでは、『孫死ぬ 子死ぬ 親死ぬ』の方がめでたいのかな」と言ったのです。
商人はますます怒って帰ろうとすると、一休さんは、
「お前さんにはこの言葉のめでたさが分からんようだな。
年寄りのあんたより先に、せっかく生まれた孫が不治の病にでもなったらどうする?
代わってやりたいと嘆いても代われんだろう?」
 年老いたものから順番どおりに死ぬということは実はとても難しいことです。
もしも自分の家族が年齢の順に亡くなったとすれば、それこそ家族みんなが長生きをし、仏さまより頂戴した命をまっとうしたということで、めでたいのです。
しかし現実はどうでしょうか。
時代を問わず、若者がある日突然、命を落とすことは、毎日どこかで必ずあるのです。
順番だなんて、最初から無いのです。
また順番通りにいかなかった家族が不幸だという考え方の根底には、「死」イコール「不幸の象徴」のように決めつけてしまう事に問題があるのではないでしょうか。
 家族や最愛の人を失う辛さ悲しみは誰しも共通のものです。
しかし、生まれたものがいつか必ず死ぬことは避けられません。
ならば人生とは「生」も与えられ「死」も与えられたものだと言えましょう。
その、せっかく与えられた生を精一杯生きて欲しい、と一休さんは言いたかったのかも知れませんね。

No.06「無明」

 三人の子供たちにゾウの絵を描かせました。
前からゾウを見た子供は長くて大きな鼻を描き、横から見た子供は、大きな耳と大きなお腹を、後ろから見た子供は大きなお尻とシッポだけを描いたそうです。そして、絵を描き終えた子供たちが互いの絵を見て、これはゾウの絵ではない、あなたのも、あなたのもゾウではない、私の絵こそゾウであると言い争うのです。
 この寓話は、私たちが実は、物事の一部分だけしかとらえていないのに、つい、全部理解したつもりになっている様子を表します。
自分がどういう場所に座ってゾウの絵を描いたのか、事の始まりはここにあると思うのです。
 私たちは、とかく手に入りやすい答えを求め、その答えが自分以外の大勢の意見と同じだと安心します。
しかしその安心は、まったく異質なものに対しては、時として激しい嫌悪感を抱いたり、敵意をむきだしにする時もあります。
 仏教では、自分の本当の姿を知らずに、悩み、もがく様子を「無明」といいます。
光が無いから手探りで歩き、目の前にどんな危険があろうと気付かないのです。
 仏法は、そんな私自身とこれから歩むべき道を光で照らして下さいます。あせって急ぎすぎれば、時につまずいたり、転んだりするかもしれません。でも、自分が今どこにいるのかが明らかになることは、私にほんとうの安心と勇気を与えてくれます。
 光がもっと大きくなれば、今度は他人の姿をも照らして下さいます。すると、ああ、この人にはこういう事情があったのかと、他人が進もうとしている道も見えてくることでしょう。お互いの道は時に交わったり、重なったりしています。「無明」を生きている間は、そこで争いが生まれます。
 しかし、お互いの道がはっきり見えれば、ゆずることだって、ともに歩むことだって出来るはずです。争う必要のない世界、異なるものどうしが異なったままで歩める世界を、どうか仏法に聞いていただきたいのです。

No.05「お陰さま」

 これは、とある草野球チームの試合中の出来事です。
守備についたA君のもとへ、平凡なフライが飛んできました。
彼はグラブを構えボールを見据えていたのですが、夜間照明の光のせいか、ボールはグラブをかすめ彼の左目に直撃したのです。
A君はその場にうずくまってしまいましたが、大変気の毒な事にチームメイトは「どうせ照れ隠しの演技だろう」ぐらいにしか思わなかったのだそうです。
ところが一向に立ち上がってこないので、さすがにみんなが心配して様子を見にいきますと、哀れにもまぶたは腫れ上がり、出血はするわで、大変な事になっていたのです!!すぐさま病院に運ばれ、眼科の先生方二人により念入りな検査と手当てを受けた結果、大事に至らなかったのは不幸中の幸いでした。
 みんな、見るからに痛々しい姿のA君に口々にこう言いました。
「だいじょうぶ?災難だったね」
まあ、もともと彼のエラー(!?)が原因だし、結果的に打撲で済んだのですから、みんな口で言うほど、同情しているとも思えないのですが・・・。A君はそんな彼らに、こう漏らしました。
「いやあ、助かった」
「???」みんなA君がケガのせいで少し混乱しているのか、と少々心配になりましたが、 「目の前が真っ暗になったときは、これでもう光を失ったかと思いましたよ。打撲で済んでよかった。ありがたい」というのです。
 人はいざ自分自身に災難が降りかかると、不幸を嘆き、他を恨みがちです。 しかし、若い頃から家庭環境の中で仏法に親しんでいた彼は、「お陰さま」と手を合わせたのでした。
 仏法には、良きにつけ、悪しきにつけ、全て「お陰さま」と引き受けてゆく強さがあります。
そしてその強さとは、からだをいくら鍛えてもなかなか手に入らない強さなのです。なぜなら、それはみ法を聞きひらき、仏さまから授かる強さなのですから 。

No.04 自分中心のメガネ

 事件の容疑者が捕まるたび、近所や知り合いの方がいいます。「なぜあの人が...」と。
ふだん真面目そうな人、優しいひと、そんな風にみられている人間でも、「縁」がもよおせば信じられないことをしてしまいます。それは裏を返せば私の姿でもあるわけです。
 親鸞聖人は「なにごとも心にまかせてしまえば、極楽へいきたいがために人を千人でも殺すだろう。それができないのは、そこまでやるほどの業縁が自分にないだけのこと。自分の心が美しいからではありません」とするどく見抜かれています。
 「邪智世間智」という言葉があります。これは普段私たちが自分中心のメガネをかけて全てのものを推しはかっていることを意味します。例えば、あの人が好きとか嫌いとか、これは正しいとか間違っているとかの判断は全てこのメガネによるというのです。自分の都合次第で、これまで大嫌いだった人間が好きになれるのも、このメガネのせいなのです。
 そんなメガネをかけている私ですから、仏教がいくら、「全てのものは移り変わり、永遠に変わらないものはない。また全てのものは互いに関係し、支え合って存在する」と説き、この言葉を頭で理解したとしても、いざ自分のこととなると、はなはだ怪しいかぎりなのです。
 高度に文明が発達した現代社会に住む私たちは、命がほかの多くの命によって支えられ、生かされているという事実に、少し気付きにくくなっているのかも知れません。しかし、いったん気がつくと、これまで見えていなかったことが見えてきます。すると痛みも伴うかもしれません。
 でも大丈夫。誰もけっしてひとりじゃないんです。恐れず一緒に見ていきましょうよ。
「一人いて喜ばは、ふたりと思うべし。ふたりいて喜ばは、三人と思うべし。その一人は親鸞なり。」あたたかい、親鸞様のお言葉です。

No.03 まっすぐに見る

 村の大きな松の木の下に「この曲がった松の木をまっすぐに見ることのできたものには褒美を与える」という立て札が立ちました。
 さあ大変、村中が大騒ぎです。村人の中には弁当持参で一日中じっと見ているものもいましたが、その松は幹はもちろんのこと、枝も曲がりっぷりがよく、ものの見事にねじれていて、どこからどう見ても曲がっているのです。
 そこへふと、お坊さんが通りかかって、立て札を読むなり、お付きの小僧さんに「まっすぐに見えたから、褒美をもらってきておくれ」と言うのです。あっという間になぞを解いてしまったお坊さんの言葉に、村人たちは戸惑うばかり。そこで、村人の一人がおそるおそる尋ねました。
村人:「お坊さま、どうやったら、この松がまっすぐに見えるのでしょうか。私には曲がってしか見えないのですが...」
お坊さま:「そりゃ私が見ても、この木はよおく曲がっているとも」
村人:「ですが、まっすぐに見えたんですよね」
お坊さま:「その通り、まっすぐに見えたよ」
村人:「ならば曲がっていないのですよね」
お坊さま:「いいや、よく曲がっておる。見事な曲がりっぷりだよ」
村人たちは訳が分からずチンプンカンプン。
 そこでこのお坊さんが云うには、
「あなたたちは、この曲がった松の木をまっすぐに見ようとするからダメなんだよ。いいかい、まっすぐに見るというのは、この松を見て『何ともよく曲がっておるの』と感心することが『まっすぐ』なんだよ。わかるかな。曲がったものを曲がっていると見ること、それがまっすぐということなのだよ」とのこと。
 お釈迦さまの教えの中に正見(正しくものごとを見る)という教えがあります。私たちは普段、ちゃんとものを眺めているつもりですが、自分勝手な都合のよい見方や考え方をして、自分の意見ばかりを主張してはいないでしょうか。仏教では、物事を正しく見ることから正しい心、つまり正しい考えが生まれてくると説きます。仏法とは常に自分の心を問いただすことが大切なのだ、と教えて下さっているのです。

No.02 人間も自然の一部

 結婚式などに出席すると、晴れてさえいれば「良いお天気でよかったですね」などと、皆が口々に言います。子どもの運動会となればなおさらですが、ここで私たちが言う「良いお天気」とは、つまりは「晴れ」のことですね。
なんだ当たり前じゃないか、と思うのも当然ですが、では快晴が何週間も何ヶ月も続いたら、どうでしょう。
 夏ならば海の家は大繁盛で、電気店ではエアコンが飛ぶように売れることでしょう。一見なんの問題もないようですが、水不足となれば農業にとって深刻な問題となります。工業にも大きな影響がでるかもしれません。とても「良いお天気」などと浮かれてはおられないのです。「そろそろ一雨欲しいなあ」などと言っていても、自分が旅行に出かける時だけは晴れて欲しいと思うもの。結局、私の都合を最優先に考えてしまうんです。
 春になると桜の花が美しく咲きますが、都合良く週末に満開を迎えるとは限りません。せっかく満開になっても、風が吹いて雨も降るかも知れません。自然とは私の勝手な思いとは関係なく、その営みを続けています。
 あふれるモノや情報で、そんなことすら忘れがちですが、よく考えると人間も自然の一部なのです。私たちは、土や水、光の力を借りて作物を実らせますが、肝心の土を作ることはできませんし、太陽そのものを作ることはできません。全て与えられたものばかりです。そして、それらの自然を恵んでくれる地球という星は、果てしない宇宙の中で他の惑星や恒星と深く関わり合いながら存在しています。
 地球の自然を含む宇宙全体の働きかけがあってはじめて、桜の花は開き、海水浴にもいけるのです。大きな事を言うようですが、人生の営み全てが自然のお陰様、お陰様の人生でございましたと謙虚になると、自分一人で生きていたのではない、生かされていたのだという事実が、新鮮な驚きとして心に響いてくるのではないでしょうか。

No.01 一粒の米の重さ

 「一粒の米の重さはどれくらいだと思うか」
ある時、お釈迦さまは弟子の阿難尊者にお尋ねになりました。
「お米は小さいものでございますから、とても軽いものと考えます」と阿難尊者が答えると、
「その重さは須弥山(しゅみせん)よりも重いものである」とお釈迦さまは仰せになりました。
須弥山というのは、仏教の世界観で宇宙の中心をなす巨大な山のことで、十六万由旬(一由旬=約七キロメートル)もの高さがあります。
 現代に生きる私たちもお釈迦さまのお尋ねには、同じように答えるのではないでしょうか。
お米一粒は秤にかけても針はほとんど動きませんし、お金に換算したとしてもわずかの値打ちにもなりません。だから阿難尊者のお答えは科学的、合理的見方としては正解です。
 しかし、お釈迦さまが「須弥山よりも重い」と仰ったのは、もちろん、秤にかけた重さではありません。この一粒ができあがるまで、春から秋までに受けた恵みの重さは量り知ることのできない広大無辺なものである、そのご恩を忘れてはいけない、との教えであります。
 少し考えただけでも、お米が私たちの御膳にのるまでどれほどの恵みがあることでしょうか。太陽の光、大地の熱、水などの自然の恵み、子育てをするように大切に稲の世話をする人々、お米を運搬する業者、販売店、炊事してくれる家族......。無数の恵みのお陰様で、やっと私にいただけるのですね。
 目に見えないものはついつい忘れがちです。ましてや使い捨てが当たり前になってしまっている現代、お釈迦さまの教えをしっかりと心にとどめ、お陰様の日々を暮らさせていただきたいものです。