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 トップ > 浄土真宗の教え

01. 私たちのみ教え(浄土真宗)
  仏教は、いついかなる時代にあっても変わることのない、普遍性をもつ真実のみ教えです。
  お釈迦さまは 八十年のご生涯において、私たちに真実のみ教えをお説き下さいました。そのみ教えを日々の生活の中で悩み苦しみ迷う私たちに、もっとも分かりやすいかたちでお説き下さったのが、浄土真宗をお開きになられた親鸞さまです。
  親鸞さまが私たちにお教え下さった浄土真宗のみ教えは、「阿弥陀さまの本願を信じ、念仏申せば仏となる」というお念仏のみ教えです。そのお念仏のみ教えは、私たち一人一人のかけがえのない人生を活かし生きる大道です。
  現代社会に生きる私たちは、忙しい毎日に追われ、目先のことに執らわれて、人生において大切なことを見失っています。蓮如さまが、そしてご先祖の方々が受け伝えてこられた浄土真宗のみ教えは 、何ものにも妨げられることのない力強い生き方、明るく確かな真に安心して歩んでゆける道へと導いて下さる教えなのです。
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02.私たちの仏さま(阿弥陀仏)
「五劫があいだこれを思惟し、永劫があいだこれを修行して、それ、衆生のつみにおいては、いかなる十悪・五逆・謗法・闡提のともがらなりというとも、すくわんとちかいましまして、すでに諸仏の悲願にこえすぐれたまいて、その願成就して阿弥陀如来とはならせたまえるを、すなわち阿弥陀仏と申すなり」
  阿弥陀さまは、いっさいの衆生、生きとし生けるものすべてを救う仏さまであり、阿弥陀如来、無量寿仏、無量光仏、不可思議光如来、盡十方無碍光如来とも申し上げます。 阿弥陀さまのお名前には、無量寿(限りない命) と無量光(限りない光)という無限のはたらき、慈悲と智慧の意味がこめられています。
  仏教では無数の仏さまが説かれていますが、些細なことに悩み煩わされながら日々の生活を送っている私たちを救って下さる仏さまは阿弥陀さまだけです。阿弥陀さまは私たちの知識でははかりしれないほど大きなお心で、いつも私たちを見守って下さっている仏さまなのです。
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03.広大なるお心(本願)
「五劫思惟の本願といふも、兆載永劫の修行といふも、ただ我等一切衆生をあながちにたすけたまはんがための方便に、阿弥陀如来、御身労ありて、南無阿弥陀仏といふ本願をたてましまして、まよひの衆生の一念に阿弥陀仏をたのみまいらせて、もろもろの雑行をすてて、一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚取らじと誓ひたまひて、南無阿弥陀仏と成りまします」
  その阿弥陀さまの願いは、生きとし生けるものすべてを救いたいという、この上なく深い願いです。『仏説無量寿経』というお経には、四十八の願いが説かれています。これは阿弥陀さまが法蔵菩薩として修行されているときに立てられた誓願であり、その誓願が成就し、阿弥陀さまとなられたことが経典には説かれています。
  親鸞さまは、その四十八の願いのうちで十八番目の願いが、この世にあってさまざまな不安の中にいる私たちのために立てられた真実の願い(本願)であるといただかれ、蓮如さまはこのことを私たちに平易にお教え下さっているのです。
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04.仏さまの喚び声(名号)
「南無の二字は、衆生の弥陀如来にむかひたてまつりて後生たすけたまへともうすこころなるべし。 かやうに弥陀をたのむ人を、もらさずすくひたまふこころこそ、阿弥陀仏の四字のこころにてありけりとおもふべきものなり」「仏智より他力の信心をあたへたまふがゆえに、仏心と凡心とひとつになるところをさして、信心獲得の行者とはいうなり」
  その阿弥陀さまのお心そのままが「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)」の六字のお名号にそなわっているのです。お念仏は「南無」とたのむ私たちを、救わんと立ち上がられた「阿弥陀仏」の名告り、喚び声であります。 これは、迷える私たち衆生(機)を救わずにはおかない阿弥陀仏(法)ということであり、「南無」 とたのむ私たちと、真実に目覚めない私たちだからこそ救わずにはおかないという「阿弥陀仏」のお心が一体となっていることをあらわしています。
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05.信じること聞くこと(聞即信)
「信ずる心も念ずる心も、弥陀如来の御方便よりおこさしむるものなりとおもふべし。かやうにこころうるを、すなはち他力の信心をえたる人とはいふなり」
  浄土真宗における真実の信は、「私が求め、信じ、そして救われる」というような請い求める信と言うよりも、「おまえを救うぞ」という阿弥陀さまの願いをそのままに、疑いなく信順することであり、仰せのままに聞かせていただくことです。 阿弥陀さまの願行が私の信となり、我が身にいただけたとき、ありのままをありのままとして受け取ることができるのです。 まったくそこには自力の計らいはなく、疑いのないところに、仏さまの真実信が私に届いていることに気付かせていただくことであり、私がつくり上げる信ではなく、仏さまの願いがそのまま私の信となるゆえに、他力(仏)の信心といわれるのです。
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06.仰せのままに(たのむ)
「それ、信心をとるというは、ようもなく、ただもろもろの雑行雑修自力なんどいうわろき心をふりすて て、一心にふかく弥陀に帰するこころの疑なきを真実信心とは申すなり。かくのごとく一心にたのみ、一向にたのむ衆生を、かたじけなくも弥陀如来はよくしろしめして、この機を、光明を放ちてひかりの中におさめおきましまして、極楽へ往生せしむべきなり」
  すべてのことに対して、あるがままに受け取ることがなかなかできないのが私たち人間です。 蓮如さまはこうした私たちに、阿弥陀さまの「たのめ」の喚び声に対して「たのむ」ところの一念をお勧め下さいました。 蓮如さまが、この「たのむ」一念、仰せのままを仰せのままにそのままにそのままにたのみなさいとお教えになられたことは、私の自力のはからい、阿弥陀さまへの請い求める心、疑いの心が一切いらないということ、すべてをおまかせすることをお教え下さっているのです。
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07.あるがままの姿(凡夫)
「阿弥陀如来のおおせられけるやうは、末代の凡夫、罪業のわれらたらんもの、つみはいかほどふかくとも、われを一心にたのまん衆生をば、かならずすくふべしとおおせられたり」
  仏教では、真相に明らかでない、真実を知らないことを無明と言います。 闇の中にいるものがいくら目を開けても本当の姿はみえません。私たちは多くのはたらき(いのち)に育まれ支えられ、また多くの罪をつくりながら今日にいたるまで生きています。こうした私の本当の姿を真に知ることは、一筋の光に照らされてはじめて明らかに知らされるものです。
  阿弥陀さまのまことの光に照らされたとき、はじめて私たちの本当の姿が照らし出されます。仏法をいただき、真実に触れ、ありのままがありのままに頂けたとき、虚仮不実のこの世界のありのままが、また我が身の姿が明らかに知らされてくることであり、と同時にそこには自ずと明るい道が開けてくることでしょう。
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08.生死をこえる(後生の一大事)
「人界の生はわづかに一旦の浮生なり。 後生は永生の楽果なり。 たとひまた栄花にほこり栄耀にあまるというとも、盛者必衰会者定離のならいなれば、ひさしくたもつべきにあらず」
  私たちは浄土や後生というと遠い先のことのように思いがちです。 しかしながら、生死は表裏一体であり、私たちの人生はいつ如何なることになるかわからない人生です。
  この世は常に移り変わる世界であり、そのような人生を生きていくしかない私たちです。そうした無情の世にあってどんなに物質文明が進んでも変わらない真実に目覚めたとき、後生の一大事が知らされ、そしてその後生が解決されたとき、自ずと今生(こんじょう)が解決されてくるのです。 後生の解決なくして、今生の解決(真に安心して進んで生ける道)はないのです。蓮如上人はこの今生こそ、その与えられたチャンスとお教え下さっています。今聞くことなくして、いつ聞くのでしょうか。
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09.お念仏(称名報恩)
「ありがたさとうとさの、弥陀大悲の御恩をば、いかがして報ずべきぞなれば、昼夜朝暮には、ただ称名念仏ばかりをとなへて、かの弥陀如来の御恩を報じたてまつるべきものなり。 このこころすなわち当流にたつるところの、一念発起平生業成といえる義、これなりとこころうべし」
  阿弥陀さまの喚び声は、いつでも、どこでも、誰にでもよびかけられています。その証拠に、いつでも、どこでも、誰もが称えられるお念仏です。阿弥陀さまのお心をいただいたということは、そこにすでに仏さまの願いが成就されたことであり、私の口からでるお念仏はすでに御恩報謝となっていることでもあります。その称名がそのまま仏恩報謝のお念仏となっているのです。お念仏を称えられることはまことに尊いことであり、私の称えたお念仏がまわりの方のお念仏ともなり、ともにお念仏を悦び、互いに敬い、助け合い分かち合う、調和の世界が生まれてくることでしょう。
  仏さまのお心を、真実を、ありのままに聞かせていただくときにでてくるのがお念仏であり、そのお念仏を口に称えることを称名といい、真に仏法をいただくと報恩感謝のお念仏となって「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」が私の口から自然に出てくるのです。 信心というすがたは名号の体となるもので、さらに言えば、仏さまのお手もとにあるときは本願であり、名号であり、私の心に至って信心となり、口にはお念仏となり、体に現れて合掌礼拝となるのです。それはすべて南无阿弥陀仏のひとりばたらきなのです。仏さまのみ教えは、私たちがこの身にいただいたとき、はじめて生きた宗教となり、必ずや私たちに生きる力と勇気を与え、そして心の底から悦びに満ちた明るい生活を送ることができるでしょう。
  日々の生活のなかで仏法を味わい、潤いのある生活を送っていただくためにも、今あらためて蓮如上人にそのことを聞かせていただきましょう。
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