関東における歴史 -浅草へ移転-


01

寛文二年(1662年)頃の浅草本願寺

寛文二年(1662年)頃の浅草本願寺

『江戸名所記』に記された東本願寺

『江戸名所記』は、寛文二年(1662年)に刊行された江戸初期の地誌である。 浅井了意の著といわれ全七巻にわたって、八十余ヶ所の江戸の名所について絵入りで解説し、歌を記している。
その巻二に「東本願寺」の項目があり、江戸時代に出版された地誌に、最初に本願寺が登場するものとなっている。そこには、

一向にたのむは彌陀の本願寺
すつるは雑行ひろひはするな

との歌と共に、教如上人が徳川家康より土地を拝領して東本願寺が創建され、神田に建立された東本願寺が、明暦三年(1657年)の大火を経て浅草へ移ったことが記載されている。また、そこ浅草の東本願寺の様子が、右挿絵に描かれている。(国立図書館 近代デジタルライブラリーより転載)文章中にも、「今は大にはんじょうなれば・・・」と記載されており賑わう山内の様子がわかる。


02

朝鮮通信使の宿館となる

朝鮮通信使の来朝は、慶長十二年(1607年)であったが、それ以降文化八年(1811年)まで、十二回に及び、その内江戸への来訪は十回であった。
江戸における宿館は、当初、馬喰町・誓願寺が充てられていたが、明暦の大火(1657年)に誓願寺が深川に移転したため、爾来、宿館は浅草本願寺が務めることとなった。
朝鮮は江戸時代において、幕府・将軍が結んだ唯一の対等な外交の相手国であり、朝鮮通信使の接待は、幕府にとってほぼ唯一の外交儀礼の機会であった。
同じにそれは、民衆にとっても異文化との交流の、もしくは異国の文物・風俗を見聞できる数少ない、貴重な機会であった。正徳元年(1711年)10月18日に、宝永6年(1709年)に江戸幕府の第六代将軍に襲職した徳川家宣(とくがわいえのぶ)の祝賀を主たる目的として、朝鮮通信使が来聘している。正使は趙泰億(チョ・テオク)であった。
記録によれば、宝永八年(改元して正徳元年)三月より、幕府の命にて浅草本願寺の改修が行われ、七月までに完了している。 『通航一覧』巻一一八)

其のときの改修費用は、

一金一九一七〇両
一銀二六〇四貫九五五匁二分
一米三四五四石四斗八升五合
金合一〇三四一九両三分
銀合五三三二貫九一五匁一分
此金八八八八一両三分
一〇匁一分

都合、

一九二三〇一両二分
一〇匁一分
五三八五石四斗八升六合
榑木五四六四五挺

となり、誓願寺修復の約十倍にのぼっているとのことである。
当時の浅草本願寺は、東西一〇二間、南北一〇九間の広大な寺域に、徳本寺以下二十四の塔頭をもっていたが、ほとんど全ての施設がこの機会に改修をうけたとみられる。しかし、それでも境内の諸施設に収容しきれない分は、境内に仮屋を建て、下官を収容したらしい。
加えて、「鷹部屋」、「馬部屋」が設営されている。これは、将軍に献上される鷹や馬、および将軍に披露される馬技に用いる馬の収容施設である。
また、『正徳信使記録』第七四には、十月二十一日に浅草本願寺において振舞われた献立が詳細に記録されている。饗応の宴は、先ず、七五三の膳が供される。しかし、これは食べるための膳ではなく、歓迎の意を表す儀式の一環である。そしてこれを下げたあと、引替として三汁十五菜の料理がだされ、これを食したのである。
その後、享保四(1719)年、江戸幕府の第八代将軍に(1716年)襲職した徳川吉宗の祝賀を主たる目的として朝鮮通信使が来聘している。
加えて、延享五(1748年 改元して寛延元年)、第九代将軍に(1745年)襲職した徳川家重の祝賀のため、宝暦十三(1763)年には第十代将軍に(1760年)襲職した徳川家治の祝賀のために来聘し、浅草本願寺を宿館として利用している。
このうち寛延元年(1748年)の朝鮮通信使を描いていると推定される、江戸市中を宿館の浅草本願寺へ向かう通信使の行列の絵がある。

朝鮮通信使の宿館となる

「朝鮮通信使来朝図」 羽川藤永筆 神戸市立博物館蔵

行列を組んで江戸市内を巡り、江戸城と浅草本願寺を往復したこの行列は、江戸庶民にとって、異文化に触れることのできる数少ない場であった。


03

天保二年(1831年)頃の浅草本願寺

富嶽三十六景 葛飾北斎に表れた浅草本願寺

天保二年(1831年)~五年(1835年)の間に刊行されたと考えられている、葛飾北斎の「富嶽三十六景」に、同寺伽藍が「東都浅草本願寺」として描かれる。
当時の江戸庶民を驚かせたであろう浅草本願寺の巨大な屋根。雲をつくような火見櫓、空高くあがった凧、そして富士山、これらをほぼ同じ高さに描いたこの作品は、葛飾北斎の構図感覚を象徴しているともいえる。

天保二年(1831年)頃の浅草本願寺

当時の浅草本願寺が、その地域の象徴となる建物、地域のランドマークであったことの証明と言ってもよいであろう。稀代の名浮世絵師、葛飾北斎には、甍の高さと鬼瓦は、富士山と比較する絶好の景色であったと思われる。


04

天保7年(1836年)ごろの御本山について

『江戸名所図会』に表れた東本願寺

『江戸名所図会』全七巻二十冊の中、第六巻に東本願寺の記載があり、その部分は天保7年(1836年)に刊行されているので、当時の御本山の様子がうかがわれる。
この図会は江戸の各町について由来や名所案内を記しているので、東本願寺の項目が設けられ、文章と挿絵が掲載されている。
その文章には以下の如く記載されている。

第六巻 開陽之部
東本願寺

新堀端大通りにあり。開山教如上人(一五五八―一六一四)、その先本山の住職たりしを、豊臣家のはからひとして、順如上人[准如 一五七七―一六三〇。本願寺派](教如上人の舎弟なり)を本寺の門跡に定められ、教如上人をばゆゑなく退隠せしめ、裏屋敷に置かれしを(このゆゑ東門跡をば裏方とはいへり)、神祖[徳川家康、一五四二-一六一六]つひに召し出され、開山上人の真影を御寄附ありて、六条室町の末にて新たに御堂屋敷を下し賜る。それより後、東西とわかる(その後、江戸にて末寺建立ありたき由訴へ、すなはち神田にて寺地を拝領す。一宇を建てて京都よりの輪番所となり、江戸中の門徒を勧化す、その地いま昌平橋の外、加賀屋敷と唱ふところなり。明暦の後[一六五五―五八]、今の地に移されたり)。当寺は朝鮮人来聘のみぎりに旅館となる。

立花会 (毎年七月七日興行す。参詣の人に見物を許す)
開山忌 (毎年十一月二十二日より同二十八日までの間 読経説法等あり 俗にこれを御講と称す 一に報恩講ともいふ そのあひだ門徒の貴賎群参せり)

ちくま学芸文庫 新訂『江戸名所図会』5 300頁より転載

天保7年(1836年)ごろの御本山について 01

徳川家康(文中には『神祖』と記載)の寄進にて神田に建立され、明暦の大火以降に、現在の浅草に移転したこと、朝鮮通信使の宿館になったこと等々が簡潔に記載されている。
中でも肝要なのは、「江戸中の門徒を勧化す」の一文であると思われる。即ち、御開山親鸞聖人の御教え聞き開く処、聞法求道の場として、大きな働きをしていたとうことであるからである。
その当時の様子が描かれたものが右挿絵である(ちくま学芸文庫 新訂『江戸名所図会』5301頁より転載)
絵の右上には、

東本願寺
十一月二十二日より同じく二十七日まで
開山忌にて門徒の道俗群参す


と記載され、惣門から参道、それを囲む塔中、参詣の御同行が俯瞰して描かれている。

次の頁には、「其二」として、
唐門、本堂、庫裏、書院、そして鐘塔等が見開きに鳥瞰図をつかって描かれており、境内地域の様子がよく分かる。

天保7年(1836年)ごろの御本山について 02

(ちくま学芸文庫 新訂『江戸名所図会』5 302~303頁より転載)となっている。第一頁目とあわせて、広大な寺域であったことが首肯される。
また、次の頁には、報恩講の参詣の模様が

天保7年(1836年)ごろの御本山について 03

(ちくま学芸文庫 新訂『江戸名所図会』5 304~305頁より転載)と示されている。
  向かって右頁の上には、

報恩講 俗に御講というふ

とあり、左頁上には、

平等に わたせるはしや お霜月  西山宗因

と俳句が載せられている。賑わう御本山の模様が、僧分の姿、遠方より参詣したと思われるお同行、年頃の娘などなど、その参詣の足音が聞こえるように描いてある。


05

安政四年(1857年)の浅草本願寺

安政四年(1857年)の浅草本願寺

東京都江戸東京博物館所蔵

『江戸名所百人美女』に現れる浅草本願寺

三代歌川豊国・二代歌川国久が描いた『江戸名所百人美女』に風景として「東本願寺」の甍が描かれている。
この『江戸名所百人美女』は、江戸各地に美女を配した作品で、歌川豊国が美人図を、歌川国久が景色を描いている。
見るとおり、景色はほんの付け足し程度であるが、名所図として浅草本願寺が選ばれたこと、そして高くそびえる本堂の大屋根が描かれたことには、葛飾北斎の『富嶽三十六景』や、明治時代の井上安治の作品とも共通の感覚があったことを思わせる。それは即ち、この大屋根がお同行のみならず、江戸市中の人々に大きく安心させる雰囲気を与えていたのではないかと想像させる。


06

江戸の川柳に表れた浅草の本願寺

十八世紀頃から江戸で大流行りした「江戸川柳」は、江戸っ子が大切にした「粋」や「洒落」が自由に表現され、寺や神社も遠慮なく「題材」にされ、面白おかしく表現されている。しかしそこに詠みこまれた内容を味わいつつその場に立つと、当時の様子が彷彿としてくる。
実際に江戸川柳に尋ね入るならば、往時の浅草の東本願寺の報恩講の有り様が、生き生きと甦ってくるようである。以下にその幾つかを示そう。

  • 「報恩講・御講(おこう)」との言葉のでるもの
    はりこんで報恩講もはれじや佛壇も
    せめて赤いが御講ろうそく
    世の中の姿は御講限りなり
  • 「御講日和」との言葉のでるもの
    御講日和にさい銭の雨がふり
  • 初逮夜の始まる「二十二日」が詠みこまれたもの
    廿二日にしつけ取るいゝきもの
    仕立やの受合二十二日まで

    ※これは、「御講小袖」と言われる着物を新調して報恩講に参詣するのが、当時のご門徒方の習わしであったため、こう詠まれている。
  • 報恩講に参詣する時に、男性が新調して着て入った「肩衣」の言葉の出るもの
    肩衣をかいとりにするいゝ日和
  • 当時、報恩講がお見合いの場、男女の出会いの場となっていたことについて
    いづもより御こうははでなゑんむすび
    いい天気婿を見つけに七日でる
    箱入りの出歩く御講日和かな
    御こうへはにうわな顔てつれて行く
    御講で見そめ御忌で逢ふ
    恋御宗旨がみんな指さすいい娘
  • なかなか良縁に恵まれない娘さんのこと
    来る年も御講に目たつ縁遠さ
    四、五年も御講で目立つ縁遠さ
    二、三年お講で目立つ縁遠さ
  • 「御取越(お取越)」の言のでるもの
    御佛事や牛盗人も斎に出る
    只たのめ茎漬の石も御取越
    御取越蝿も他力の生残り
    よき凪やお西お東お取越
    新発智に惚れし女やお取越

    ※当時の浅草の東本願寺が、江戸の生活にいかに浸透していたかを窺い知ることができるものであると思われる。

07

明治四三年(1910年)の浅草本願寺

大洪水に襲われ、床下浸水となる

1910年8月11日、日本列島に接近した台風は、房総半島をかすめ太平洋上へ抜ける際に、各地に集中豪雨をもたらした。利根川、荒川水系の各河川は氾濫するとともに、各地で堤防が決壊。関東平野一面が文字通り水浸しになった。
この洪水によって、当時の東京市の中心地や下町に被災し、被害は、死者18人、行方不明者3人、負傷者9人、建物の破壊・流出58棟、床上浸水88,495棟、床下浸水33,871棟、被災者数555,478人にのぼった。また、水が引くのに2週間もかかったと伝えられる。
浅草東本願寺の門、経蔵、御本堂、そして書院が水浸しになっていることが分かる往時の様子が絵葉書等に残されている。

明治四三年(1910年)の浅草本願寺 01

土木学会土木図書館・「戦前土木絵葉書ライブラリー」より

別の画像では、

明治四三年(1910年)の浅草本願寺 02

土木学会土木図書館・「戦前土木絵葉書ライブラリー」より

となっている。「東本願寺附近」の文字が見える。
また、『目で見る台東区の100年』(郷土出版社)には、

明治四三年(1910年)の浅草本願寺 03

との画像が掲載されている。現在の浅草通りからの眺めであろうか、このような山門が建っていたことを示す貴重な資料である。